小倉百人一首・百人一首抄(宗祇抄)・百人秀歌

拙著『狂歌絵師北斎とよむ古事記万葉集』ので参照してきた『百人一首抄(宗祇抄) 吉田幸一編 笠間書院(1969)』について、本文での記述を編集の過程で削除した結果、参考文献にも掲載し忘れたのであるが、三弥井書店から別系統の伝本の影印と解説『百人一首宗祇抄 姉小路基綱筆』が上梓されたので、割愛してしまった部分を公開しておく。原典は上掲本の第二部に相当する部分からのもので、その後第一部の「葛飾北斎の「百人一首姥がゑとき」をよむ」の部分を拡充した、結果第二部の原稿をかなり割愛して刊行したものである。

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  『御所本 百人秀歌』(久曽神昇「解題」 宮内庁書陵部蔵 笠間影印叢刊 1971年)の刊行があって以来、従前、知られていた「百人一首」との違いが考察されてきている。これにより「カルタ百人一首」に矮小化されて、歌同士のつながりが軽視されてきた状況に変化が起きた。この結果を知る好書として以下の三つを参照してきた。
・百首通見 安東次男 集英社 (1973)
・絢爛たる暗号−百人一首の謎をとく 織田正吉 集英社     (1978)
小倉百人一首 田辺聖子 角川文庫   (1989)
   しかし、どれも百人一首の編者が定家であるという前提で書かれており、「宗祇抄」が伝来してきたものとは成立年代の認識が異なる。本書(注;拙著刊行以前の原稿で刊行時には割愛した部分)は「宗祇抄」は応仁の乱で京都が焼け野原になって以降の成立という予断で考えてきた。
百人一首抄(宗祇抄) 吉田幸一笠間書院 (1969)
  
  宗祇か定家かという問いの立て方自体無謀ではあるが、有力な根拠は『百首通見』にある、鎌倉幕府を慮(おもんばか)れば取り上げることの難しかった後鳥羽院・順徳院の諡号が定家の死後確定したものである事が第一。加えて、ここでは排列を重視する立場から考察する。
  とりあえず指摘しておきたいのは宗祇抄100首と百人秀歌101首の違いで、類書がこの点に関心を示していないのは残念。数100は平方数で、伊勢物語の100段では「しのぶ草・忘れ草」のような固有名の語釈のむずかしさを取り上げている。101段は藤原氏の権門振りを皮肉っている。だから、両者は編集の意図が異なることを明章する。

伊勢物語   和歌の道   百人一首
100段;忘れ草・忍ぶ草   固有名という言語理論の中核の深化   宗祇抄100首
101段;ありしに勝る藤のかげ   藤原権門周縁の人々の屈折した人生   百人秀歌101