『秤(はかり)』

  • 瓢箪・ひさご

 口絵を見たとたん「あっ」と思った。古漢方の秤量の道具である「厘秤」の箱が瓢箪の形をしているのである。民用で最も感度がよい秤で、0.1g以下の秤量が可能という。そう、ずっと日本人は秤とアフリカ由来の瓢箪を関連づけて記憶してきたのだ。とくに官庁が中国崇拝を続ける中で卑しい夕顔の花を一方で愛でてきたのである。これがわかれば源氏物語の「夕顔→玉蔓」の隠喩もさらにはっきりと解ける。すなわち
「夕顔→瓢箪→はかり→かず→玉蔓→民生→実用→日常→ケ→黒→太政大臣」となる。さらに「玉蔓→日常」ならばば本居宣長の「たまかつま」まで繋げてもいいのかも。

  • ひさかた

 以前、吉野裕子氏による加茂真淵の「ひさかた←瓢」説を読んだ時はピンとこなかったが、今読み返すと「瓢→中空→天空→宇宙→万物→計数→陰陽五行」の隠喩がよく伝わってくる。となるとたまたま数日前に、近所の本屋で見かけた一行が思い出された。「前方後円墳」と呼ぶより「壷墳」の方が当時の宇宙観が伝わる、のだそうだ。

  • 標準分銅

 律令では標準分銅を「様ためし」と呼んだ。現存している古いものは「太閤小分銅金」と呼ばれる23個の「まゆ型」分銅セットである。天秤用ではなかったらしいが正確に10両の値を示すという。これは写真をみると「瓢型」ともとれるが歴史的には卑しい「瓢」ではなく「まゆ」という美称で呼ばれてきたのであろう。この形は江戸時代の両替商の使う分銅に引継がれていく。ネーミングが良かったのであろう、一方荷駄用は「太閤千木の錘」が残っているが、間違えようがないほど「瓢型」である(p105)。一方米など租税の基盤となる荷駄の計測に使われた江戸期の錘は古代中国と同じく吊鐘型あるいは立方体の升型である。ちなみに口絵をみるとモヘンジョダロで出土した石の錘も立方体、つまり升型である。

  • 棹秤

 著者は官僚出身らしく国家がなければ民生は成り立たないという前提にたつ。だからまず天秤が出来てその後に棹秤が出来た、という前提で本書は貫かれている。だがシステムとしての天秤と実用としての棹秤は別々の発達をしてきたと考えることが出来ると思う。荷駄を作る時に必要なのは「ものを等分する」ことであって、荷駄の絶対量を知る必要はない。この用のための天秤がまず普及し、それが「公平」「合理」の表象を獲得し、その表象を国家権力が活用して租税や貨幣のシステムを構築したのであろう。しかし民用ではむしろ「比較した程度」つまり数量の指標が求められていた。それには棹秤が便利だし、その発明をまってはじめて秤が広く普及したのである。そして先進文化の人々が周辺部の人々と交易する時にはが天秤などもっていかずに棹秤を用いたに違いない。
 だから日本の秤の歴史は棹秤から始まった、と考えないといろいろな点でmiss lead されてしまう。だからこそ実用の秤は第一に「棹秤」で無標、一方の天秤は特別の秤ということで有標なのである。さらにこれは今に至るまで音読みだけである、いかに人々の日常と無縁であり続けてきたか、よくわかる。むしろ「天秤棒」の方が親しみがもてるから不思議である。

 この漢字は「つむ」とも「おもり」とも読む。そして音韻「つむ」は「船」と「紡錘」の意味をもつ多義音韻である。もちろん動詞「積む」ともすぐに重なるのは当然として、その連用形「積み」を介して「罪」と結びつく縁起でもない音韻なのである。その謎が「死後人は秤で悪行をはかられるという仏教の説法」から来た「巌のごとく重い罪」の紹介で得心した。