「世にふるも さらに宗祇の やどり哉」

    思いたって、『芭蕉文集;昭和30年発行』を繰っていったら上記の句にであった。
    12世紀末の女流歌人・二条院讃岐の「世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨かな」は、宗祇・芭蕉と受け継がれた、と歌学で措定されてきているわけだが、近世の二句とても「よのふる→四幅ふる」 と置き換える方が染め物の労働の大変さと重ねることができ、歌にリアリティーが出てくる。だが、戦国の世の、14世紀末にあって歌道の君主となった、宗祇には無縁というよりは邪魔くさいリアリティ、つまり要らざる・ト・デモいいたいリアリティとなる。
    平安時代以上に染色作業がお末専用の仕事に還元されてしまっていた時代状況も考慮しなければならない。というよりも女の日常など慮外の社会集団が世間の隅々まで浸透していた近世をきちんと思い起こしていくのでなければ、国史を勉強する価値はない。
   「よにふる」の語句の胡散臭さについては、有名な9世紀の女流歌人小野小町の本歌「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」を取り上げて既に書いた。http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20061229
  この仮説をさらに推するために、以下の語対を作って本歌の復元を試みてみると、小野小町は既に「離見の見」の認識を表現していたことになる。
疑似逆語序対〈いたづらニ わが身世ニふる ながめせし間ニ・いたづらノ ヨノふるわが身 ながめせし間ニ〉
推定本歌; 花の色は うつりにけりな いたづらノ 四幅ふるわが身 ながめせし間に
      「あめつち48音字」の音義を読み解けなくなっていた江戸時代の男性歌人集団にとっては小野小町が単なる叙情歌人以上に認識論においても相当な使い手であった、ということを認めるのは耐え難い屈辱であったことだろう。そういう予断までを芭蕉が共有していたのかどうかはわからない。むしろやんわりと警鐘しつつ継承するために、あるいは継承しつつ警鐘するためにこの句を上梓したのかもしれない。はっきりしていることは、男尊女卑という負の共同幻想に正面切って、棹さすのは渡世上は現在以上に冒険だったということだ。
    もっとも世阿弥の「離見の見」は明治初期に西欧語をものした知識人による能の再評価・再興の動きの中で西欧哲学に拮抗する日本の哲学の象徴とし再発見されるまで忘れ去られていたわけであるから、江戸歌学の知的水準についても、時代の制約を踏まえた冷徹な評価が求められる。

年老いる=世にふる⇔四幅振る⇔世のふる=時代がすすむ=末世になる

     芭蕉; 世にふるも さらに宗祇の やどり哉
     宗祇; 世にふるも 更に時雨の やどりかな
二条院讃岐; 世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨かな
  小野小町; 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に



・よまむ・よばむ⇔おもゆ・おぼゆ
・年よわい(年齢)
・としふる・としふける
・歳より・歳よわる
・歳老いる
・よるふる・とるふける
・星ふる・星ふける

組語〈星が降る・星振る・歳経る・年月を経る・夜がふける・女のふけ顔〉

対語fu〈幅・富〉
〈布bu〉〈武wu〉〈巾jin〉