お子さんはギリギリです

   日本語ボランティアの会合でペルー出身の方から上記文例について誤解が生じやすいとの問題提起がされた。日本の先生は警告のつもりで言っても、ペルーの親は「まだ大丈夫」と受け取るというのである。

   少し考えてみたら、これは初級の文型と同じパターンであることがわかった。すなわち、「今度の日曜日、公園にいきませんか。日曜日はちょっと。」
上の文例について、日本人も、なぜ「ちょっと」なのか、きちんと説明できる人は少なくて「直接断るのは失礼だから」などという「あいまい日本語擁護論」が満ち満ちている。しかし、それは本質を見誤った認識で、もっと単純な理由からきている。これは「仲間内の会話;ため口」では「省略が満ち満ちている」ことによる。

だから省略されている副詞・形容詞を補う習慣を身につける必要がある。

・日曜日はちょっと「した用事があるのでいけません。」(含意は残念)
・日曜日は法事・勤務などの重大な用事があるのでいけません(含意は仕方ない)

件名の例文ならば
・お子さんは十分に合格です(含意はすばらしい)
・お子さんはギリギリ合格です(含意はよかったね)
・お子さんはギリギリのところで不合格です(含意は残念)
・お子さんは十分に不合格です(含意は仕方ない)

   実際の状況では先生は以下のように発言したのだと思います。「ギリギリですが、このままでは残念なことになります」

   以前、地域で日本語を教え始めたときにNOVAの先生から
「probabilityをパーセンテージで明示して欲しい」といわれて困ったことがありますが、公用語母語では重点が違っているのです。

・新聞記事や学校の課題(公用語)で大事なのは「事実の確からしさ」ですが、
・共同体(つまり母語)で大事なのは、「事実の意味」なのです。


・運動会の明日は必ず晴れです(すばらしい)
・運動会の明日はまずまず晴れです(よかったね)
・運動会の明日はまずまず雨です(残念、でもあきらめない)
・運動会の明日は必ず雨です(仕方ない)

慣用的には中の二つには「文末でしょう」をつけたくなりますが、
文法的には四つともつけることは可能です。
大事なのは、つけてもつけなくても4つの関係が優先されることです。

上の例でわかるように母語では

「事実確度の量序」ではなく、
「意味価値の序列」が大切なのです。


母語というのは文脈を共有している人々の間に成立するので、
「一言」で意味を伝え得るというのが基本であり究極です。
むしろ顔をしかめたりして一言も発せずに相手を支配することすらが求められる。
逆に言えば、共同体の外部の人たちとの会話では十分すぎるほどの言葉を補う必要がある。

それが「日本語をひらく」ということだと考えている。

こういう領域に踏み込んでいるのは小松英雄氏の「活写語」の概念であるが、まだ不十分で、「活写語対」という概念にもとづいた分析が待たれる。






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