三回の連続講座;琳派の誕生(講師;林進)

これは昨年から今年にかけて行われた全10回の「宗達を検証する」の補講。
http://www.sotatsukoza.com/



■11月29日(土)   光琳筆『風神雷神図屛風』と宗達筆『風神雷神図屛風』
    まず、前回の10回講座の要約として琳派の祖について光悦とする通説を退けた宗達説の論証。導入で取り上げられた風神雷神図の雷神の肌が白いのは、従来の赤肌雷神図とはまったく異なる意匠であり、それは宗達とその育ての親でパトロンだった角倉素庵との関係以外考えられないという説は説得力があるとともに歴史上の著名人の固有名についての現在の我々の常識とはことなり、「本名がいくつもある」と考えるべきであることを認識させられた。
   個人的には前講座で取り上げられた素庵の書と仮構された「鶴下絵三十六歌仙図」の字種の一覧表が興味深かった。素庵は土木事業家であったが、後期から木版印刷事業にも乗り出しているから、字種についてはそれはそれなりの見識を持っていたはずであり、具体的にどういうものであるかを総覧できたのはうれしい。
   前回の第五回;古活字版・整版本「嵯峨本」の成立と展開
          活字書体設計家としての素庵、装飾料紙作家としての宗達
            http://www.sotatsukoza.com/menu/sotatsukoza_shiryo5.pdf
   前回の第四回;重要文化財「金銀泥鶴下絵三十六歌仙和歌巻」
           和歌は誰が揮毫したか、下絵のテーマは何か
            http://www.sotatsukoza.com/menu/sotatsukoza_shiryo4.pdf



■12月6日(土)     光琳筆『紅白梅図屛風』と宗達筆『楊梅図屛風』
    今回は両図の意匠にかかわる見方。加えて光琳の水紋の画材の検証実験の具体例。
    ここで具体的に紅白梅図の水紋の色材を特定する作業における紆余曲折の話があり、さらに下地料の重要性が取り上げられた。
   この下地の話から会社員時代にいじっていた非結晶性べんがらの歴史的可能性というアイデアを思い出したので、企画書風にメモしてみた。

今後の要望;美術史の基礎となる列島の色材史の総説にむけた各論の発掘

  縄文期のうるしの着色料である弁柄について最近ようやく微生物由来の特殊な結晶が取り上げられるようになったが、私はかつて、アモルファス形の弁柄で酸化チタンコーティングすることで着色力、彩度を向上させることに成功している。(特公昭63-47683)
  故に、類書で結晶構造分析から弁柄の不在を結論しているものは全て再検討を要すると考える。そのことを二回目にふれられた下地料のことで強く再認識した。(?-11)
  つまり、胡粉というのは単なる延展財ではなく発色着色力の要であり、その設計と製造法ノウハウ抜きに列島の色材史は構想されるべきではない。
  古今集1026にある「おもいの色のしたそめにせん」というのが果たして染色だけの問題に還元していいのかも再検討すべきだ。つまり貫之が屏風絵と関連付けられているのだから絵画の下地料にも延長して考えるべきではないか。

  また、何故歌道が「もみじ」にこだわり続けてきたのかも考えるべきだ。縄文以来の鉄系着色料は黄から赤まで連続しているというのが列島の色材認識だからだ。だから黄花から抽出した紅花色が大事にされてきた。これは黄土から極上の丹色を精製する工程をなぞるものだ。共に「もみだす」という工程を経ている。
  ところがこれにより「柿渋染め」というのが、染色正史から抜け落ちてしまっている。『和紙文化誌;久米康正』のp50にある正倉院御物の染料名には「かきつばた染め」が収載されているが、常識で考えればこれは黄から茶であるべきだが、考察はない。なぜならば古今集の解釈が青色花に還元されているからだ。
   しかし、カキツバタが柿タンニン染だとすれば、媒染剤によってノウハウさえあれば青・緑・茶の発色が可能であり、現在の古今集の解釈と矛盾するものではない。また、ベロ藍は北斎の時代からと言われているが、品質・価格はともかく、桃山時代にも紺青ないし緑紺青として、画工たちには知られることとなったと考えてもいいのではないか。水墨画に着色する場合、こちらの方が効果は高かったはずだ。富岡鉄斎はこのことを知っていて、鉄の文字を号に入れたのではないか。
  などなど色材から日本美術を照射してほしいものです



■12月13日(土)  俵屋絵師から見た宗達 ―「蔦の細道図屛風」「伊勢物語図色紙」をめぐって―
   省略






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