円周率3.14;非人情でよむ『天地明察』

   小説の縦糸は9世紀に京都で採用された宣明暦に代わって、13世紀に元で採用された授時暦を改訂した貞享暦(大和暦)が17世紀末に幕府公認を得るまでの物語で、横糸に関算学が出てくる。両方とも、もともとは宣教師によってもたらされた西洋文物の輸入公認の流れの中に位置づけられる歴史的事象である。
   だが、当時の世の中は鎖国の真っ最中であるから、当然西洋文物の手直しであることは隠されて歴史には記述されてきた事象である。だが関係者ならば当然承知してきた事象でもある。それが明治の維新になって、と言うよりもアメリカにやっつけられたやりきれなさをごまかすために、日本の方が西洋より進んでいたといって和算や大和暦などをとりあげて、平成になってからは「ジャパン・クール」などとお囃子太鼓をたたいている流れにのった商品である。
   従って関孝和が若いときに転びバテレンのもとに通って直に西洋の学問に触れてきたことは隠されている。だが、それによって当時の、そして現在の数学や天文学の学会部派の中にある予断が鮮やかに浮かび上がっている。
  p298には「何しろ多くの算術家によって円周率の近似値が3.14と証明された今もなお、巷間の技術職人をふくめ一般民衆は3.16という旧くから伝わる円周率の方をありがたがって使用するのが実情なのだ」とある。
   ここに使われている「ありがたがって」と言う語彙こそが「権威をめぐる争奪戦」を唯一の文脈とおく予断なのである。一般民衆にとっては習慣はありがたがっているモノではなく「単になじんでいる」モノに過ぎない。それは「汚してはいけない晴れ着」よりは「身になじんだ粗末な普段着」の方に手が伸びるというだけのことである。
    それに、日常生活では円周の正しい値3.1416に不足の3.14よりは、余裕のある3.16を使う方が合理的ではないか。「大は小を兼ねるが、足りなかったときに継ぎ足すことはできないのだ」
    こういう視点の欠落は、「罰則をともなうという恫喝的メートル法改正」から「用語・質量の押し付け」、そいて「ゆとり教育排撃」と同時に起きていた「原発村の増長」までを一貫して流れている科学なき技術立国を盤石にするための共同幻想である。


   さらに、ここで取り上げられた事実でおもしろかったのは、宣明暦ではすでに冬至の設定に1〜2日の齟齬が生じていたのに、その結果として月食日食の予想に狂いの出ることを保科正之が嘆いて見せていることである。その原因として取り上げられているのが、宣明暦は一年の長さを365.2446日とすることだとある。
     そして「誤差は100年で0.24日、800年で2日」と決めつけている。だが、これは誤差ではなく地球の自転と公転のずれであって、現代の計算でも「ずれ0」を実現はできない。どこかで調整するしかない。その調整権は度量衡重の基準設定権と同様に最高権力者に属している。これは数学の問題でも天文学の問題でもなく、行政権力行使の問題に過ぎない。だからこそ、小説のキーパーソンに幕臣が登場せざるを得ないのである。
    さらにここではっきりしたのは、最高権力者は冬至のずれについてはあまり意に介していないことだった。それは太陽太陰暦の施政下では、その調整が必要であることは周知であったからである。一方月食や日食については専門家筋の他流試合の格好の演目であった。そもそも日食や月食などは民生にほとんどかかわりがない。冬至は次の年の農作業の割り振りに大きな影響をもつが、蝕などは、当日が曇りであれば見えないし、気がついた民衆がいたとしても、その場限りだし、物知りがいればそういうことが間々あるんだよで済んでしまうことだ。
   今は暇な民がおおくなって、それを商売の種にする人々が増えてきたというだけのことにすぎない。それでも風神雷神がお出ましになれば、日神や月神の一大事などは無に帰する。
     学校歴史がおかしいのは、天岩戸事件を日食と関連付けて子供に押し付けていることである。まさに現行指導要領が「科学なき技術立国の赤児教育」を志向していることをよく示している。昨年になってようやく大津波に恐れをなして高台の洞窟に逃げ込んだ事件の記憶ではないかと示唆する学説を目にしたが、あまりに遅い指摘であった。


参考データ
関 孝和;1642−1708
富永仲基;1715−1746
本居宣長;1730−1801
大政奉還;1867年






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