「日本語は人造語だ」

    日本語の重要性というか、私の中にある「死角」に気がついたのが2005年ごろで、昨年あたりから、度量衡のような専門用語には、民衆に普及するのに効率的かつ合理的な造語法があったのではないかと考え始めた。今までにやっと 4つばかり姿が見えてきた。以下。

(1)貴卑同源
(2)母音屈折対〈お・あ〉
(3)逆語序
(4)用体の一体不離−用体同根

    このことをさらに考えていくためには、日本史の勉強がいると考えて、吉野裕子からはじめて、さらに古事記や古代史関連本を読み始めた。だが、全体の見取り図が見えてこないし、上のルールについても新しい知見が見つからないでいた。やっとウエッブで見出しの語句をみつけ、いそいで岡田英弘氏の『倭国の時代 1976初出』と『日本史の誕生 1994』とに目を通した。結果は、よく言えば明瞭で、悪く言えばソッケナイ。
だが理である。
記紀』のような1000年以上も手書きで筆写されつがれて残ってきた文書、それも中国のような石蔵ではなく、紙と木でできた建物に保存されてきた文書が改ざんから100%救済され続けてきたはずはないのである。そういうつもりに積もった垢というかビラビラというか、要するに作為を剥ぎ取ったら何が残るのかという方法論には感服した。以下はとりあえずのメモ。
■〈日本やまと〉の成立は660年
   縄文時代の日本は20世紀初頭の台湾や東南アジアの少数民族をイメージすればわかる。要は高地に集落を構え、余剰農産物を必要としない人々。言語は集落ごとに違っていて、集落が違えば一般人の話は簡単には通じ合えなかった。
   それが紀元前後の韓半島を経由した中国商人の来訪によって交易に目覚め、余剰生産に目覚めた。海岸に居住するようになり、中国の史書に出てくるようないくつかの部族国家を形成するようになった。渡来人は当初新羅系だったが、現在の華僑と同じく王権を直接とることはなかった。
   ところが中国の政権交代韓半島の政治情勢を不安定にし、とりわけ661年の「白村江の敗戦」「百済滅亡」が日本の人々の危機感をあおり、統一国家の機運を生んだ。そのときに活躍した渡来人は百済系中心。
    具体的には668年の『近江律令』、古墳出土の文字「天皇」、670年の『庚午年籍』。そして中国語と対抗できる日本語の必要が確認された。ここから「日本国」になったのである。
■中国語テキストの〈云〉の逆語序
    『倭国の時代』 p186に出てきたのだが、〈云〉は文章の頭につけば引用文であることを示し、文末に来る場合は、漢字本来の意味、つまり〈然り〉という意味ととるべき、とあった。つまりキリスト教の「アーメン」の使い方と同じだということである。
■「太安万侶」とは何者か
     『古事記』は長い間、秘伝とされていたが、それを平安時代になって公にした人物の名が「多朝臣人長」だという。つまり両人とも〈おお氏〉なのである。結局のところは新羅系の〈おお氏〉と百済系の〈上毛野氏〉の抗争が絡んでいると結論づけられる。さらに『古事記』が古い時代や歌唱に詳しいのは〈おお氏〉が宮廷舞楽の役職だったからだと結論している。このことは私の『古事記』以前に長い口承正史の時代があったのではないかという推理を補強してくれる。
■人造語・日本語
    万葉集古今和歌集源氏物語 を通して日本語が作り上げられていったが、散文の日本語は漢文に押されて紀貫之ですら貧弱なレベルであったとされる
■感想
     ここでは、女のおしゃべりを書記しただけの『枕草子』は黙殺され、『古事記』の歴史書としての脆弱性が強調されている。事実、『古事記』を歴史書として読む人々が圧倒的に多いのだから、こういう書き方になるのはやむをえないが、最初の物語テキストと考えれば、人造語・日本語への貢献は大としなければ片手落ちであろう。仮に、『古事記』が書かれた時期が平安期だったとしても、『古事記』が平安時代の日本語で書記されたことにはならない。それは口承文芸の伝統が日本にあったからである。それは各種の芸能として今日まで日本文化の基底を連続して流れてきたものである。ホメロスの詞が書記された時期とホメロスの詞がカタチをなした時代は分けて考えていく必要がある。
     そのことはそのまま【国体語】と【国語】の違いの検討を要求する。つまり〈公用語〉と〈共通語〉の違いである。今まで議論してきたように〈でかい〉〈こいつ〉〈重たい〉などの語彙は学校では習わない。つまり公用語ではない。だが、日本人の日常語としてなくてはならない。つまり、日常の共通語である。そのような公用語ではない共通語とその文法の形成は、長い年月ををかけて行われてきたと考えないと、現在の日本語の重層性が見えてこない。
     上で書いた〈長い年月〉が、紀元前後から近江朝までの数百年なのか、それとも新しく発見されてきた古代揚子江文明との交易も視野に入れた縄文時代カラ(/コノカタ)続く数千年の年月になるのかは、私の中で未だはっきりしない。
     それはそのまま、古事記の土台が、岡田氏のいうその場だけで費消されていく、つまり共時態でしかない「高貴な巫女の口寄せ」なのか、それとも一定の時間と空間を共有しえていた通時態である「口承正史」なのかを問い続けていく、ということでもある。