祝辞と祝詞

祝言・呪咀 http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20070925」の続き
「祈りと呪い http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20060601

上野の東京博物館に行った時の印象を書いた9月10日のtweet以来、気になっている「呪・祝・祈」の弁別について、「祝詞・祝辞」の弁別から新しい切り口が見えた。
結論から言うと漢字には「呪詛・呪咀」を弁別する熟語があるのと対応するのが偏だけを採用した「祝言・祝口」「呪言・呪口」だということが見えてくる。では「祝詞・呪詞」はどこに来るかというと最後にくるはず。そのことを認めるためには「言・云」と対応する「調・詞」というものを考えないとむずかしいが、それは最後にまとめて説明する。現在の問題をややこしくしているのは「しゅくじ祝詞のりと」に両読みがあることで、語彙が見えにくい。「祝詞のりと」であれば語頭の「祝」を共有する「呪詞」と対をつくる。

  祝言   祝口   祝詞
  呪言   呪口   呪詞

なぜ、世の中に熟語「呪詞」が流通していないのかといえば卑賤義だからで、中世までは横行していたと考えることができる。それに対して「祈り」というのは中立から富貴義によっている。
だが、字形からは「斥」をもつので「災いを斥ける」だけでなく「災いを相手になすりつける」の義をもちうるので「斥言・斥口・斥詞」というのは卑賤義の方が強い。さらにキリスト教では祝詞(のりと)の代わりに「祈祷書」という用語をつかうし、「祷;寿」に富貴義があるのだから「祈」は自分の不幸を排斥して結果として他者を不幸にする願望につながる概念であることが分かる。「祈祷」は「続日本紀」に天平時代に疱瘡の流行を止めるために行われたとあるから由緒正しい日本語である。

  祝言   祝口   祝詞のりと
  祈言   祈口   祈祷いのり+とう
  斥言   斥口   斥詞

ところが「听・欣」には「口を小刻みにして笑う・口を大きく開けてよろこぶ」とあるから、「呪・祝」に対応させることも無理ではない。つまり大きな声をだすのは欣然に、口の中でモゴモゴするのを斥然にである。そして「吹」も系列にくるから「呼気声」であると考えてもいい。そしてもっといえば「呪祝」の二字熟語は「呪祈・祝祷」の四字熟語として流通させるべきだったことになる。

  言欠     司欠

次に旁「斤」「欠」の会意文字を一瞥すると「斤」には直示語「これ・それ」が見つかり、「欠」には「歌」が見つかるから「はれ・祁」を経て「祝言・呪言」へと関連づけることができる。

      斯これ・其それ
       

という操作を経ていくと「祝・呪」を含む「祝言言辞・呪文文字」という四字熟語対の課題が見えてくる。実は、2007年にまとめた「実情報告・理論文書」が現代の情報化社会を切り取る大きな枠組みだとすれば、古代社会の言語社会を切り取る大きな枠組みたりえるとひそかに自負してきた。だがそれを明晰に表現するには何かが不足していた。
「岡林みどりの唄 http://midoka.life.coocan.jp/
それが「祈」を得ることで「祈声」の重要性が意識にのぼってきた。日本では仏教の「声明」として知られるがこれは「祈声」なのであって、キリスト教ではコーラスを通して「語文」を習得する装置となっている。したがって、ここまでの捜査と操作によって「祈声声音」を加えて四字熟語の組にしておくと通時的な枠組みが見えてくる。

四字熟語対;祝言言辞・呪文文字
四字熟語組;祝言言辞・祈声声音・呪文文字

ところが「祈り;pray」の、擬音語には「play;遊び」がある。当然、祈りは集団で前方あるいは神像に向かって発声するのだが、遊びの主流は対戦型だから、これにより「陳述文」と「やり取り文」へと対応つけられる。そこでやっと気が付いたのだが認知言語学では最近「役割語」という概念が注目されていることについて「役割;role:パロール」とばかりおもいこんでいたのだが、「play・pray」の転注語に関連つけた方が「パロール・ラング」の理解には合理的だということだ。というのは「ラング・パロール」の有力な訳語に「規範言語・非規範言語」というのがあるのだが、規範言語は「社会階層方言・地域格差方言」として言語学の主要テーマになっているから、四字熟語組のうちの「祈声声音」を加えれば五元軸の見取り図を作ることができる。
なお、現在の言語学の用語では差別的な用語を排除する方向で「階層・格差」などを使わない習慣が広まっているが、大学院生レベルになったら四字熟語でその原義を共有できるようにする活動が望まれる。現に日本のあちこちで「どっちが高級か」をめぐって「はだの秦野はたの」などの社会階層方言をめぐるメディア戦争は続いているのであり、人間が「不幸の原因」を存在と考える限り、その排斥のための「格差づくり」は行われていくのだから学術用語の世界だけを無菌箱にすることには副作用もある。

言語の見取り図
    社会階層方言    
祝言言辞   祈声声音   呪文文字
    地域格差方言    

上の見取り図をもとに日本の言語史を考えると、中国語の輸入から始まった文字生活には三つの教科書があったことに気が付く。論語漢詩史記の三つで、大まかにいえばそれぞれ祝言言辞、祈声声音、呪文文字に対応つけられ、学習者も初級、中級、専門家となる。もっとも広く浸透したのが「論語」であることは重要で、ここから「語法・記法」が出てくる。ところが翻訳言語学は「文法」にまとめてしまい、現代日本語では「統語法・構文法」の対語も機能していない。
さらに「漢詩」の学習が音韻規則の習得を必須としていたことも忘れられている。英作文でも詩となれば「頭韻・脚韻」が主要課題になっていた。それは耳からの訴求に有効な技術だったからだ。だが、漢字を読めなくても耳からの韻を楽しむことはできていたわけで、平安時代には「口遊」という書物ができている。そして江戸時代にはダジャレは庶民必須の言語技術となっていた。このような現象を見る時、万葉集に見られる誹諧遊びの前段である「譬比比喩」歌の重要性が分かってくる。その理由を考えると「古事記」の「応神天皇の時に百済から論語千字文がもたらされた」という記述が思い起こされる。
とくに、「千字文」というのは四字熟語「天地玄黃」から始まり250の四字熟語によって歴史や地理などの基本概念14をを千字によってあらわした書文で、論語が文官用ならば、こちらは一般用の手習い書。読み方は口伝で漢音・唐音・呉音の別なく当時の耳に新鮮かつ中国風と考えられた音声と語義が一緒に広まっていったのであろう。でもこの千字文を知っていれば、大陸の人々と筆談でかなり高度な会話が成立したはずである。そして学習場面を想起するならば寺子屋のようなところで素読しながら子供時分から中国音と日常語の乖離を身体化していったと考えることができる。とすれば仏教移入の本格化以前に誦文として階層・地域を超えて共有されていったはずである。これが現代日本語のパロール(当初は規範言語だっとしても論語の推奨下では非規範言語となる)の中核にくる。以上を整理すると2軸5元図ができる。
1、祝言言辞・祈声声音・呪文文字
2、社会階層方言・祈声声音・地域格差方言
それぞれ主な軸名を与えてみる

祝言言辞   祈声声音   呪文文字
論語   千字文   史記
  万葉集   古事記
社会階層方言   ラング   地域格差方言
社会階層方言   祈声声音   地域格差方言
役割語   discourse   上申文・雅文
やり取り;俗語   words / terms   陳述;申語
共時態   ラング   通時態

こうやって整理すると「祝辞・祝詞」の関係も明瞭になる。
「祝辞」というのは結婚式はもちろん卒業式、送別会、あるいは弔辞もそうであるが、準公式のものだから読む人は事前に書文を用意して、読み終わったら主催者に提出するから、学校などではこれを保管しておく。だから100年後にこれを開けた人は専門家ならばその大意をつかむことができる。という意味で書き残された書文は読みあげられた時には共時態だが、残存物は通時態なのである。用字「辞」が「舌;口」と「辛;いれずみ」の会意文字であるのはこのためである。なお「書文」の逆語序「文書」は「政府による公式の文書」の意味で「史記」を代表とする。「論語」はあくまで「書文」であるが、これを学べば私空間における祝辞や送辞答辞を読み書きすることができるようになる。
一方の「祝詞」は目的が神官社会内部の通時伝達を目的としていて、これをもとに正しい「調声」が行われ、伝統にのっとった共時態が再生産される。

祝辞   ラング   祝詞

補足として「言・云」「調・詞」を取り上げる。
「言・云」については「信・伝」との対応から「云を縦に積み上げた形が言」だと考えることができる。それで「規範的・非規範的」を当てはめることが許される。事実「伝言」しても信頼されるわけではない。立派な書文をおくってこそ「信用」が得られるのである。本当はもう一つの「曰・申」の関係も説明しなければならないのだが未だできない。
一方「調・詞」を眺めれば旁は「周・司」なのだから、「全体・半分」の義が見えてくる。結局「調音」のもつ完全性をメモによって不十分に補足しているのが「詞」ということになる。