異和 vs 違和感
「変だ・をかしい; http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20141021」の続き
その後、『星三百六十五夜;野尻抱影』を繰っていて、新村出から松田修までくりだしていったら『日本の異端文学』がひっかっかてきて、その中に「反時代的視座--村上一郎論」があり、ここで松田はいくつかの対語をつかっている。そこに「異和」の対蹠として「等質」がでてくる。
村上一郎 | 心理・ディオニュソス | 草莽 | 浪漫者 | 相似 | 等質 | 二重焦点 | ||||||
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丸山真男 | 論理・アポロ | エリート | 合理主義者 | 背反 | 異和 | 二元論 |
丸山真男については文体と用語の問題としてすでに考察してある。
「識者の文体・一期一会の文体 http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20110706」
こういう問題を解決するためには四字熟語を基本用語として、さらにその対語で思考を積み上げていくべきではないかと考えてきている。その成果の一つが「実情報告・理論文書」でここから「情報・論文」という対語が派生したと考えると「情報」の中核義が明確になる。
参考「四字熟語対【可措身命・不措身命】http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20110706 」
ここでも、二字漢字語で論理的なあるいは体系的な文章を読み書きする限界が見えてくる。「相似」「背反」「等質」にしても、すぐに「疑似」「相反」「均質」そして「違和」のような類語が想起されてしまう。書き手はそれらとの差異を意識して用語を選択したのか、そうでないのかによって文意の全体が異なってくる。
近い・違い・誓い |
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そもそも和語「近い・違い」が正濁音対であることを誰も気にしていないが、ここから問題をたてて解いていくべきではないだろうか。ここには二者間では距離零はありえないという前提が確固として横たわっている。それが和語話者本来の知的水準だということだ。だとすれば和語においては性同一性障害というものが論理的には存在しない。だが、慣習上差別が存在する。とすればこれは論理の問題ではないことだけははっきりさせるべきだ。そこが分からない人たちの運動が差別用語狩、放送禁止用語拡大にのめりこんでいったのは知的水準の退嬰を意味している。
次には「誓いをたてる」という語も、これが「ぼやっと」したものではなく「明確な意思」と通底している。だから「近い」と音韻相通するものが選ばれてきた。これが「約束の地」とかになると、実現へのヴィジョンが見えてこない。
違い・偉い |
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また、「違い」と旁を共有する「偉い」は両義語で尊敬の「偉大」という二字漢字語でしられるが、「葦」は歌語において「あし・よし」の両義音を与えられている。
一方「互い違い」という用語には「互」の中の二つの部品「∧∨」の関係が「反転関係」にあることの象形であることが見て取れる。
違・圍・幃・偉 |
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ここでさらに字書を繰っていくとなんと【圍=囲】とあり、さらに【幃】は一重の帳(とばり)とある。とすればこれは王城がまだ石垣や土塀で囲まれる以前、幕で囲まれていた時代の用字を引き継いでいることが見えてくる。さらに、ここから、日本の歴史において王城に対して一段低いものとしての用字「幕府」に引き継がれてきたということが得心できる。
さらに「幃」は「葦」から作られたことを含意していく。それに対して「綿」「幡」などの用字にはどのような弁別機能が付与されていたのだろう。
異・黄・番・黒・ |
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源順の「あめつち沓冠歌48首」の解釈について考えてきてから千字文冒頭の「天地玄黄 宇宙洪流」についても考えてきている。
もう一つの いろは;あめつち;http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/JSKR10.pdf
之の語義を確定するためには四字熟語を仮構しなければならないのだが、一つの考え方としては、「天も地も玄黄」で、次に字形の類似を考えると「洪黄・玄流」とくくるのが穏当。どちらかにあえて当てはめれば「天に黄色の点々・地に玄流」となる。目に一丁字もない民草たちに、これを分かりやすく説くとすれば、「点々線の雨と川筋のような辻」というのは優れた例字である。
もう一つの考え方は、「玄黄」「洪流」をそれぞれ四字熟語にする方法がある。そうすryと「玄奥・黄班」「洪水・風流」という仮構が導ける。
「黄班」というのは眼科の専門用語だが、結構漢文訓読の素養のある人たちの造語なので、基礎語彙の歴史を考えていく時には参考になることが多い。例えば「胎児・膣・子宮」。このような用語使いから「台・室・宮」を抽出すると源氏物語の「み台さま」とか武家の「令室」とか、そもそも内親王が「宮さま」と呼ばれることの必然が納得できる。
「女男(めを)の理」と「民衆の理論」と;http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/mewo.pdf
webで「黄班」を検索すると日本眼科学会のホームページに以下の定義がでてくる。
黄斑とは網膜の中心にある直径1.5mm〜2mm程度の小さな部分の名称で、黄斑の中心は中心窩と呼ばれ、見ているところ(固視点)からの光が当たる部位です(図2)。黄斑にはキサントフィルという色素が豊富にあるために黄色をしています。カメラのフィルムと網膜では大きく異なることがあります。カメラのフィルムではどの部分でもよく写りますが、網膜は中心(黄斑)では大変良い視力が得られますが、それ以外のところでは正常の目でも十分良い視力は得られません。したがって、黄斑は大変小さな部分ですが、黄斑が障害されるとそれ以外に網膜に異常がなくても視力が著しく低下し、運転免許を更新したり、字を読むことができなくなったりします。 |
つまり眼科医世界における北闕のようなものなのだ。そして「班」は「番」に通底していく。両者の差について字書を見ると・・・。
班;わける、わかれる、その結果。つなげる、ならべる、その結果。等しい、序列。めぐる、ひきかえす。
番;交代する。数(序数・量数)。未開の異民族。
国字では見張り、宿直・宿直、組み合わせ、つがい。弓のつるに矢をあてる。契る。
班・斑・興・與 |
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班は王を二分することで、それの間に何かが存在するとすればそれが「文」で、斑を導く。一方「臼」を二分すると底から出てくる場合は「興」で、そこに何かが与する場合は「與」。
輿・挙=舉・誉 |
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「輿」は貴人の乗る台であるから、担ぐ人たちがいて「挙」。それらの内で功績があれば「誉」が与えられる。
番;采・乎・禾・壬・千・升・乇・乏・乘 |
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番の使い方は日本独特のようだ。采女・舎人の対語と関連があるのだろうが、まだ繋がりはみえない。だが、上に「ノ」を加えた字形はいろいろと面白い。
異・圍 |
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今回のまとめだけをしておくと、上の対語が存在語で、イメージから云うと【異→黄→横】という開放系と、【囲】という内外の閉塞系の対比を仮構すべきとなる。一般的には前者が水平移動を、後者が身分の水平移動と関連付けられやすい。