判断・断定(4);連接構文・拘束構文

    以前ここで源氏物語の冒頭の「いとやんごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめきたまふありけり」についての東大の先生の解釈について取り上げたことがある。

判断・断定(3);古代中世の接続詞〈が〉

http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20120502

   最近、ちょっとした仮説を思いついたので検証のため、小松英雄氏の著作をめくっていたら同様の批判がでていた。『仮名文の構文論理(増補版) 第六章 p235』
   この章での著者のオッカムのかみそりは【連接構文・拘束構文】。

     ようするに因果を示す「ので」「から」や継起の順番をしめす「〜して」や反対に同時性あるいは巡回性をしめす「〜したり」などの拘束力のある助詞が挿入されていない二句を近代人の第一位印象で、それらの拘束性を一義的に当てはめていいのか、というのが著者の主張である。
     そして、著者は多くの拘束文型への変形が「やむごとなき際にない=身分が低い」と「すぐれてときめく=寵愛を受ける」の語序の入れ替えをともなっていることに異議をとなえる。(p246)さらに著者の感じる違和感の根拠として「書記言語」と対峙すべき「口頭言語」の特性を無視しているからと続ける。そして連接構文の特徴として語序の重要性を指摘する。さらにこれは【かたりかけ・叙述】の対立項としても言及される。
    だが、著者の主張が分かりにくいのは【かたりかけ】には隠れた文意がともなっていることを現代人の多くが認識できなくなっているからである。
     だからまず全ての語りかけは【求愛・説教】のどちらかの意をともなって発声されることをまず共通認識にした方がわかり易い。このことは以前以下の項で論じた。

祈りと呪い

http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20060601
ここでは以下の小朝の落語から抽出した二句の語序を比較した。
●求愛文型;君ってちょっと太めだけど、とっても可愛いよ。(僕とつきあってくれよ)
●説教文型;君ってとっても可愛いけど、少し太めだね。(もっとダイエットした方がいいよ)
    ようするに「かたりかけ」を主とする口頭言語における連接文型では語序が決定的な意味構造を作り出しているということなのである。これは我々の日常言語の真相に横たわる規範であるから叙述文型にあっても拘束助詞が欠ける場合は第一印象をまさに拘束するのである。
    これを源氏物語冒頭の文型に当てはめると以下の文例となる。
●身分はそれほどでもないけど、寵愛された人。(うらやましいわ)
●寵愛されたけど、身分はそれほどでもない人。(あっ、そう)
    そして実は二番目の文型がじつは叙述文型へとつながるのである。
    なぜならば「そんなつまらないこと を何故わざわざ発声するのかというと、尋常ならざる事態の原因分析という仕事が発生するからである。一番目は感情移入して、それを共有することで語りの共同体が成立して、次へと展開していいけばいいのであるが、「つまらない事態」を取り上げるということは分析して教訓を引き出すことへとつながっていく。これも語りの共同体の必然である。だから中世において説教話という説話集が源氏物語以上に庶民には人気を得ていくのである。
●寵愛されたけど、身分はそれほどでもない人。(うらやましくはないけど、その理由は知りたいでしょう?)
    答え;美人だった。教養があった。運がよかった、etc、etc、etc、etc、etc、
    そして前項で求愛とおいた文型は「賛嘆文型」と言い換えることができることに気がつく。

    そうすると同書の7章で取り上げられる「春ハあけぼの」の文型についても著者は「いとおかし」を補う通釈を否定しているが、口語の深層にある「〜がいい」をおぎなう解釈は基本中の基本と考えることができる。
    ただし一つの文型で変形するとおかしくなる。これは以下の二文型をセットにして考えていく。それぞれが賛嘆と一般化という叙述を担っている。
●春ならば、曙がいい(賛嘆)
●春でも、曙がいい(叙述)
あるいは
●太郎ならば、できるはず(とりたて推薦)
●二郎でも、できるはず(最低要件という叙述)

これがやがて「は・が」の対立として定着する
●花子ならばできる(推薦文)
●花子ができる(文意不明)


●花子がやる(逆序をつくって「やる人は花子」の意の推薦)
●花子はやる(何をやるのかわからないので文意不明)
  →叙述文としては三詞文「花子は運転をやる」などが定着する



【連接構文・拘束構文】
【口頭言語・書記言語】
【かたりかけ・叙述】
【求愛・説教】
【賛嘆・叙述】
【推薦・叙述三詞文】