『蛇と十字架』

  本書は「呪い」の書である。典型的な例を一つあげるとp143。いわく,キリスト教を背景とした近代ヨーロッパの圧倒的な物質文明の前に、日本の伝統的な動物観は崩壊を始めた。それをいやがうえにも加速化し、決定的にしたのは高度成長文明である。それは里山の荒廃と軌を一にしていた、と。こういうのを私は自虐史観と名づける。井沢史観いうところの「たたり信仰」でもある。風が吹いても日蝕がおきても「たたり」なのである。「何か自分に非があったからこういう悪いことがおきた」という因果応報史観ともいっていい。
  でも、さすがに旧の国立大学で今、独立行政法人においてdisciplineされた人らしく本の最後はキレイ事で締めている。「のろい」はあくまで「挿入」されているだけである。だが挿入の方が効果的であることは[図と地]のような古典的心理学の後に出てきた認知心理学によって[サブリミナル効果]として取り出されている。これは映像文化の氾濫に対抗するための研究からもたらされたもので、有名な実験にコマーシャル画像を本編番組に組み込んで、意識されるかされない頻度と時間、視聴者に見せた時の広告効果の測定実験がある。もちろん効果があったのである。それでは本書の最後のところを見てみよう。なんと「アニミズムルネッサンス」なるものの宣伝でした。全部カタカナなんだよね。あとがきをみるとエラーイ先生の名前と西洋文明の脅威がずらずら並べてある。
  あんまり気色悪いんで〈蛇と十字架〉で検索かけたら、すごく素敵なwebがひっかかかってきた。ヨハネ伝より「モーセが荒れ野で蛇を上げたように人の子も上げられなければならない」と。森一弘氏によれば旧約聖書でも蛇は神による罪と救いのメタファとしても登場しているのだそうだ。そもそもこの著者の本を手にとることにしたのは いいだもも氏の著作に引用されていたからなのだけど、同書にあった〈貴卑は同元〉という言葉も西洋文明にも通底する含蓄のあるいい言葉である。
  本書は一冊の本としては疑念がのこるが、資料としてはおもしろかった。p161に紀元前後の中国皇帝による下賜銀印とAD3世紀の蛮夷侯金印の写真が並べられているが、飾りの蛇のカタチが長い形からトグロをまいた形になっていた。日本の蛇はいつからトグロを巻いている形になったのかと気になっていたのでこの写真はとてもおもしろいと思った。なぜなら、この図像により三世紀には〈長いもの=大きいもの〉を成立させるために必須の[単位重量]という概念が支配層に共有化されていたことを実証するからだ。
9世紀から建造がはじまったというアンコールワットで私が見たのは、長いだけのヤマタノオロチに似た蛇神「ナーガ」であったが、吉野裕子氏が7世紀に成立した記紀の中に見たのは雄雄しくも大きな蛇神「三輪山」であった。この違いは貴重な点だと思うのである。なぜならば、文明とは良くも悪くも「抽象化への流れ」なのだと思うからである。
  さらに前頁にある弥生土器に描かれたという「蛇を襲う人間図」も興味深い。なぜならこの本でも繰り返されている「何故日本人は蛇を崇拝したのか」に対するヒントを与えてくれるからだ。答えは弥生人が蛇を食べ、それをおいしいと思っていたからに決まっています。おいしいと思わなければ食べないし、食べるために殺さなければ、タタリを恐れる必要もないのです。だから蛇を恐れたということは何か後ろ暗いことがあったからに決まっているのです。これが井沢史観の切れ味・凄みである。