『全国アホ・バカ分布考』

      16日に、〈stupid〉について考えたついでに新潮文庫にざっと目をとおした。著者は男性。したがって語源の部分は文字資料と外国語としか関連づけていない。その上、滋賀出身なので京都中心史観が濃厚。注目すべきは柳田が「ヲコ」との関連を重視して、中国語の「馬家」などとの関連を強く否定していたという記述。
     私は、「音韻文法」を構築する柱として今まで〈逆語序〉〈母音屈折〉〈貴卑同源〉を考えてきているのだが、音韻〈おこ〉には私も注目してきた。〈真っ赤になって怒る〉のは何故なんだろうか。〈あか・おこ〉の母音屈折、それも自然に屈折したのではなく意識的に、つまり文法として導入された可能性は否定できないと考えている。柳田は「京都人が口をすぼめて「ヲコ〉というのを田舎武者たちは大口を開けて〈バカ〉というようになったのだろう」と書いているそうである。そして柳田は〈ワ行・バ行〉の遷移を当然としていたという。
    私は五十音図を眺めていると〈ワ行・ア行〉〈バ行・ハ行〉〈バ行・マ行〉〈ア行・ヤ行〉の遷移もしばしば起きているように思える。教科書が認識しているのは〈清音化〉だけであるが、とりわけ〈母音行〉の導入自体がかなり政治的な作業だった、つまり口唱正音として記紀時代より前に導入されたのではないかと睨んでいる。そうすると〈バカ〉は〈清音ハカ〉以外の〈バカ〉〈ワカ〉〈パカ〉〈マカ〉〈アカ〉〈ヤカ〉の六つのどれを祖としていてもいいことになる。当然もっとも罵詈にふさわしいのは〈バカ〉であることは論を待たない。
     これは子ども専用の語彙だが〈アッカンベー〉というのがある。辞書語ではないが、〈アカ〉を語源とみることのできる大事な音韻だ。音韻〈ワカ〉は普通の語彙として〈若い=未熟〉という卑語になったのだから罵詈語の範疇から外れて当然だ。〈マカ〉は〈マカ不思議〉とか〈マッカな嘘〉とかやはりあまりいい意味ではない。<ヤカ>だって、〈やかましい〉というののしり言葉に成長した可能性も無きにしも非ずだ。
    さらにもう一つの可能性として古層の清音〈ハカ〉に〈清音ア〉を付けて〈アxアか→アfアー〉となってから〈アハウ〉の三拍語となった可能性がある。

     著者は〈アホ〉の語源として〈阿拇;乳母〉を取り上げながら、大事な乳母をののしるはずがないという理由で捨てているが、この理由はいただけない。<怖いもの見たさ〉があるから〈饅頭も蛇もコワい〉のである。貴卑同源、これを忘れては語源探求は無理である。民俗学や語源探求の時は〈偉・い・異〉を肝に銘じておくべきだ。沖縄の〈フリムシ〉の語源探索には著者の〈一つの語彙には唯一つのイメージしか存在できない〉という唯一意味史観が顕著に出ている。残念だ。
     私なら素直に漢詩語〈鴉暮〉を第一候補にあげる。漢詩からの直輸入だから唯一の祖語と考えるなら記紀以降となる。清音なら〈アホ〉、卑濁音なら〈ヤボ〉。鴉は狼藉をする嫌われ者であると同時に神の使いでもある。ののしり言葉にはもってこいの材料だ。カラスから来た音韻だとすれば、そのイメージはタミール語が入ってきた時期にまでさかのぼることもできる。とすればもともとあった〈アハウ〉に似た音韻を祖語として、上で考えた〈アfアー〉や視覚イメージを補強する漢詩の〈鴉暮〉も合流して、唯一のののしり言葉としての神通力を獲得していったと考えることができる。

    一番嬉しかったのは関西では〈バカモン〉〈バカタレ〉は良く使われていて、〈アホ〉を使わない地域もあるという記述だった。さらに西鶴も基本的には〈バカ〉を使っていて、〈アホ〉は使っていないという。つまり江戸時代には既に辞書語〈バカ〉は全国流通を果たしていたということである。ある方に、外国人が日本語の罵詈語の単調さに軽い軽蔑の念を表明する場合があると伺ったが、書き言葉に許される唯一の罵詈語が〈馬鹿〉だったのであろう。これには当然表記漢字が『李斯列伝』中の「趙高の故事」を連想させたことも寄与しているに違いない。私なら書き言葉〈馬鹿〉の開発が音韻〈バカ〉の流通を助けたと評価する。流行語の発明者の元祖として広告業界はその人物を探し出して末永く顕彰すべきだ。
    そしてなにより貴重な情報が得られた。関西では〈バカモン>が現代まで生き残ったのに、関東では〈バカメ〉から〈メ〉が脱落してしまったという事実である。その理由は簡単だ。関東には体言〈アホ〉がなかったからだ。私は関西弁はほとんど知らないが〈そんな、あほな〉は記憶にある。だから関西では〈ここ一番の〉ののしり言葉には〈この、バカモンが〉を用い、②以降の成句には体言〈アホ〉を用いたのであろう。それが p250にある「親父から〈アホ〉といわれたことは一度もありません。いつも〈バカモン〉〈バカタレ〉で叱られてきました」という発言の背景である。
    ところが関東には便利な体言〈アホ〉がなかったので、〈バカメ〉では強すぎるときに〈バカ〉と裸にして用いるようになったのであろう。それで体言〈バカ〉と、もともとからの用言〈バカ〉が混在してしまったのであろう。 

    次に、著者には全く関心がなかった onomatopoeia と関連付けてみよう。 onomatopoeia から語源を探るときに注意しなくていけないのは「どちらが先か、つまりどちらが語源か」は簡単には決められないということだ。たとえば「長々とお邪魔しました」という句は〈長い〉の語源ではなく派生語である可能性も高いということである。だが関連する onomatopoeia が多いということはその語彙が無文字社会の人々の生活に溶け込んでいたことを示す。それは大衆生活の深い部分に根ざしていることを意味するから、祖語である可能性は高くなる。
   不思議なことに〈バカバカ〉という音韻はあまり印象に残っていない。だが逆語序〈ガバガバ〉ならば「大きすぎる服のイメージ」がわく。要するに〈馬鹿でかい〉ということだ。単音節で考えると正反対の二つの句が浮かぶ。〈ガバッっと起き上がる〉〈バカッと口が割れる〉。単純に考えれば〈バカ=大きい口=中身が無い〉となるが、〈ガバ〉の逆語序説も捨てがたい。
     それに〈おきる〉の古語は〈おこる〉だから柳田のいう〈ヲコ〉のイメージとぴったり重なる。つまり、〈ガバ・オコ〉は〈狼藉〉や〈鴉暮〉のイメージにぴったりだ。誰かが、あるいは何かが急に視野に飛び込んできてその人を驚かし、その眉をひそめさせる現象だからだ。そして〈狼・大神〉でもある。〈アホ〉にも少なくとも明治時代までは乱暴狼藉者の意味があったことは「阿呆物語」という最下層出身の悪党物小説の翻訳があることで推量できる。
    では何故、カラスや狼が「愚か者」の意味になったのであろう。それは私達が大人中心、権力者中心の語彙にまみれてしまったからだ。権力者とりわけ趙高のような馬鹿な権力者は自分の気持ちのよさを中心に何事も捉える。だからもし誰かが自分を脅かさないまでも、驚かせて不愉快な目にあわせたら、そいつを無能者呼ばわりするのである。周囲の者も自分なら権力者を驚かすようなヘマはしないと思っているから、権力者のそういう言葉遣いを引き継いでいくのである。
    だが、大昔には、庶民は自分がイヤだと感じることと、相手の知能とを直接には結びつけなかった。反対に、自分を驚かせたもの、その力動に自分が感じた〈怖い〉という気持ちを直接に音韻にしていったのであろう。だからこそ動物がメタファとして使われ、それは神のメタファにも引き継がれていったのだ。
    一方、宮仕えの人々にとっては、もはやカラスも狼も恐れるに足らずとなり、一番怖いのは趙高のような馬鹿な権力者だったのだ。私のように7年間も「あれは大きいのか、重いのか」と悩んだ人間には近世における無体な権力者と唯一意味史観の裏返しの唯一語彙史観の恐ろしさが良くわかるのである。

   最後に、著者が結論したように〈バカ〉が、〈アホ〉より古い用言語彙であるならば、それは onomatopoeia から派生したと考えるしかないであろう。そう考えると〈アホ〉は確実に都人から出ているが、〈バカ〉は九州王朝からでも越前は鳥浜アンポンタンやダサイタマからの出自であってもかまわないということになる。
     それを如実に示すのが p251の〈バカタレ〉の分布である。〈馬鹿駄目〉 の訛り語か祖語かはわからぬが〈バカタレ〉が全国に分布している図は日本国民の単一起源説を見事に裏付けている。音韻〈バカタレ〉から見る限り発祥は九州。そして〈バカタレ〉の空白地域を埋めるのが〈タワケ〉であることもp96から疑いようがない。そこにヤマト朝廷を引き継いだ幕藩体制の本拠地アヅマの中心が見事に浮かび上がっている。そしてp363の「アホ系分布」こそが記紀から桓武までのヤマト王権の実態的な勢力図であったと判断することに多くの人は賛成するはずだ。〈タワケ〉と〈アホ〉に共通するのは〈清音ア〉である。反対に古墳社会のまったくの埒外に長くあった沖縄は〈xウ〉で、東北は〈xオ〉。これは思い切って言うなら〈wオコ⇔xオコ〉からの直接の派生であろう。〈清音ア〉こそが記紀以前の古墳時代をとおして政治的に採用されていった音韻であることが伺える。それが遠くまで清明に届く音韻だからだ。言い換えれば、音韻象徴としての神通力が飛びぬけていると当時の支配層に考えられていたのである。


■16日の記事より
   ①<この、馬鹿めが><あの、馬鹿めが>
   ②<そんな、馬鹿な>
   ③<直示体+は、馬鹿だ>
   ④<私って、馬鹿ね><私、馬鹿よね>


■21日追記

卑語 音韻  逆語序 備考
馬鹿、墓 [バカ・ハガ] がぱっと起きる・かばう
若い(未熟)・わがまま [ワカ・ワガ] ギャーギャー・かわいそう オギャー
アッカンベー・あがなう [アカ・アガ] カアカア・ガアガア
かがち(蛇) [ガカ・カガ] かがむ・かがる・かがやく
逆らう・坂 [ザカ・サガ] かさかさ・がさがさ
じゃが(否) [ジャカ・シャガ] がしゃがしゃ
たかだか(少)、だが(否) [ダカ・タガ] かたかた・がたがた
流れる [ナカ・ナガ] かなしい・がなる
曲がる [マカ・マガ] がま口・ガマの油売り
かまし [ヤカ・ヤガ] がやがや
じゃかまし [シャカ・ジャカ] かしゃかしゃ さかしら・かしこい