父、竹田政民の遺したもの

  父が逝って一年がたつ。娘のひいき目から見るなら、よく働いた父だったが、世間の評価は低い。それはニンジンを目の前にぶら下げられての仕事をしなかったからだった。そして他人にも、そういうことを要求しない人だった。私の進路についても、「自分で苦労して身につけたもの以外は役に立たない」としか言わなかった。
  今の日本を覆っている閉塞感の一つの原因は、このような「働き観」が失われているにあると思う。父は自分勝手に動いていたから、世間は「働いている」とは考えなったようだ。だが、働くとはなにも他人に言われてする仕事をすることだけではない。というよりそれは「手足を動かした」に過ぎない。人が働くとは、つまり全身全霊で動くとは、手足を動かす以上の何かでなければならない。
    父がニンジンをぶら下げられて動くことに、いかに否だったかの逸話が残っている。70年代のオイル・ショックで会員数が半減したある学会の幹部に呼び出された父が言われたのは 「設立発起人の一人だったんだから、責任をもって会員数増強担当部長を引き受けよ。その代わり、うまくいったら私学教員の君だけど、必ず学会長をさせてあげる」 だった。
    父はめったに怒らない人だったけど、怒るときには、それは己に向かう。だから、その悲しみは深いものとならざるを得ない。父の言い分では、その学会はもともと会員数は0だったんだから半分モ残っているのは慶賀すべき事態である。それを、失った子の数ばかり数えているのでは、終戦当時の日本化学会となんにも変わらない。それでは、自分たちがやったことは第二化学会を作っただけだったのか、というものだった。
    まだ、私学教員の給料が国立大のそれよりはるかに低く、その中から学会参加費用もまかわなければならなかった時代に、社団法人設立のために、後払いで働いてくれる事務員を見つけて、下宿を世話し、夕食は母の手作りを供してまで頑張った父の失望は大きかった。父は本気で、会員のための会員による会員に必要とされる新しい学会を作れると考えていたらしい。
   それでも、懲りるということを知らない父は、やがて「壁掛けテレビをつくって円高を乗りきろう」といってい小さな研究会を立ち上げた。さすがに、法人格をとることを勧める友人には「組織は必要だと考える人たちが、必要なものを持ち寄って、必要な間だけ活動するように作るべきだ」といって耳をかさなかった。もちろんこんな無体を通せたのは、軍人一家の期待を担って受験した陸軍幼年学校に入れないで、結果として進学した武蔵高等学校同窓会の人脈と、アメリカ人実業家ゴードン氏の支援とにあった。
   武蔵高等学校ではよき師、よき友人に恵まれたようである。特に玉虫文一先生は、最後まで、父の欠点をふまえてのよき支援者であったように聞いている。
   そして世間が円高不況という言葉をわすれ、テレビが壁にかかるのはあたりまえじゃんと考えるようになったとき、研究会は解散し、父は夢の中だけに生きるようになった。


竹田政民の横顔から http://midoka.life.coocan.jp/papers/MTakeda.jpg







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