読み書きリテラシー以前の、語序リテラシー

    菅首相おろしの黒幕の一人とメディアでみなされている鳩山由紀夫氏の公設秘書だった上杉隆氏が孫氏を持ち上げて、まあまあの文章をものにしていた。だが、最後がいけない。http://diamond.jp/articles/-/11996?page=4
>少なくとも、被災地の住民に対して「高台への移住計画」を高らかに宣言している首相よりも、
>孫氏が、ずっと夢を与えてくれる人物であることは確かだ。

  

1、科学の根幹を成す「比較対照」という作業には前提として比較対照すべき両者には必然性がなければならない。その点でこの文章内で、孫氏と首相を比較対照する必然性はまったくない。こういうロジックを許していると、メディアの文章はどんどん質的劣化が進む。この点にはおいて、文意と無関係な文末二行の削除を勧告説得できなかったダイヤモンド社の編集・発行の責任が問われる。

表現の自由とは、読み書きリテラシー欠如の自由を意味しない。

2、発声語の基本は語序
    プロメテウスが盗んできた火力も新しく生まれた原子力も、とてつもなくおそろしい力である。だからこそ、それらを飼いならすために多大の犠牲を払ってきたし、今現在も払い続けている。ナパーム弾などは火力技術の最先端だ。原子爆弾だって、何時使われるか分かったものではない。
   だが、言語もまた危険極まりない技術なのだ。最近の事例を挙げれば、ヒットラーアジテーションに始まって、テレビ・メディアから垂れ流される専門家のエビデンス情報まで、すべてを枚挙は出来ない。そのことに人類の中の賢人が気がついたのは、文字の発明以前だと考えることが出来る。それは中国では〈呪・祝〉の対義として形になっている。口の中でもごもご言葉をする分には自分と身内だけが理解できればいいのであるから、どのような恐ろしい呪いでも行為することが出来るが。身振りなどの象徴を使って〈示す〉行為は祝言として〈呪言〉とは弁別しておかなくてはならないと先人は考えたのである。
    その後言語より恐ろしい文字が、さらに恐ろしい攻撃力の発達によって、言語の持っている本質的な危険性は社会の中で省みられなくなってはいるが、欧米の大学では作文指導を通してかなりの学生の身体に埋め込まれている。なぜならばその原則はそれほど難しいことではないからだ。だが、戦後の日本の学校教育ではこの原則が教えられていないし、知らない人々が知識人として胸を張って暮らしている。私自身が、その点を明確に意識できた時には、50歳近くなっていた。参考;「祈りと呪い http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20060601

簡単なことなのだ。最後に悪いことことを付け加えないことだ。

    だから上記の文を添削するならば、以下のような例が考えられる。
A; 民主党の党首が提唱している「高台への移住計画」に、孫氏の夢が合わさったらならば、民主党の実績は輝かしいものになるだろう。
B; (あるいは、文頭にもっていって)、民主党の党首の提唱している「高台への移住計画」には夢が感じられなく、もどかしく感じている党員も多いようだ。だが、民主党の応援団の孫氏の構想には夢が感じられる。詳しく見てみよう。


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2011年8月12日追記
週刊ダイヤモンドと上杉氏は再び呪いの文体を掲載した。
筆者は、こういう文体を公共財とは認めない立場をとる。
文末
「なにしろ、原発処理や復興の最大の障害がこの内閣であったのだから――。」