「古今和歌集・仮名序」を読み解く;喩とは愉

   以前一回だけ香川景樹を取り上げたことがあるが、ちょっと思うことがあって、『香川景樹;兼清正徳 1973』 を通覧した。その中の「調べの論」の項をまとめると「近世の復古思想をも超克した香川景樹」ということで、いかにもの大日本帝国臣民として生をうけた男性らしいお題である。
    兼清正徳氏が香川に加上して展開している主張は、私とは真反対の「太古のまことの調べ」を直接に感知再現しうるという主張を構成している。
参考;「天地初発 http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/shohatu.pdf
  
   一方、『日本歌学体系9巻』で、八田知友、熊谷直好が「しらべ」の対語としてあげているのは、「ことわり」だった。このことからわかるのは、両氏にとっては「仮名序」がチンプンカンプンだったことだ。だから「理では解けない」としなければ香川の古今集礼賛を引き継ぐことはできなかった。それは神志野隆光氏が『古事記伝』の重要な部分を「宣長一人の直観」とおかざるを得なかったことに似ている。
キーワードの「まこと ノ しらべ」であるが、日本語では両語ともすくなくとも六つ以上の義が用いられているのであるから、それぞれを六書・六義と関連付け、その上で仮名序の六つ歌と唐の六つの様式とも結びつけた一貫した説明がなければ、これからの若い人たちに議論そのもの、つまり1500年以上続く、識字社会を構成する日本人とその思想、その研鑽の歴史を理解させることは難しい。そういう地道な作業がまたれる。それが暗黙知(蒙昧)をひらくということ。日本語を世界にむけてひらくということも同じ。以下はそのための習作。


      両氏の混乱は、カタチのつながりも、音のつながりもない二語を対にしたことからくる。少なくとも、【ことわり・どうり】【本当(まっとう)まっこと】の四元型をつかって考えてほしかった。そこにさらに【わけない・わけあり】を使うとさらにはっきりする。そうすれば、少なくとも五つ以上の「わけの類義語」が日本語語彙には埋め込まれていることわかるはずだ。

【式1】

わけ     わけへだてがない   わけあり
分配法   本当   ことわり   つながり
道理   慣例どおりに   どーりで   命令どおりに

これは幼児の発達を観察するとわかる。
【式2】
1、食物の獲得;総数量序を間違えない能力(ならう・まねる)
        嘘をきらう性。
2、分配の多寡;自分の分け前についてわきまえる能力(まなぶ)
        ばれなくても、手をぬかない真面目さ
3、交際の嗜み;技術を駆使して、やりとりする能力(ふりをする)
        相手のことを大事にする気質(おもいやり)
4、しきたり;ハレとケをしきたりどおりに怠る能力(とりしきる)
        祖先や世間を尊重する生き方・人生観
         
     上の四つの能力はばらばらに育つのではなく、赤ん坊のときからの「繰りかえし」を 空間関係に「なぞえて」発達させる。大人になるための関門が「3、ふりをする能力」で、ここで「まねっ子」「贋物つくり」は【悪】だが、物まね上手はほめられるという多義性の世界へ入っていく。この過程こそ、人が共同体の一員となっていく道筋であるから、もちろん多くの失敗を重ねる。この時に【上手・下手】とは異なる軸【まじめ・ふまじめ】という二番目の軸が導入される。失敗しても真面目に行った場合は叱責に手加減が加えられる。
  最後の「しきたり」の世界は、実は公儀と私儀では異なっている。そのことを系統的に教えてこなかったツケを今支払っている。【私儀-ことわり】では2と3が大事なので、失敗は取り返しがつくものであるが、【公儀・道理】にあっては、4だけに関心があるので、失敗の取り返しはつかない。
   二君に見えることは悪だし、破廉恥罪は極刑が相当である。そういう類のけじめを不条理だと感じた浅野の殿様は吉良に徹底的に苛め抜かれたと被害妄想して逆上したわけである。現在でも国会論戦は惑乱状態であるが、論理の世界でいう背反論理がわからない政治家は、国際社会では通用しない。隣国のように元大統領が次々と犯罪人になるのも理解できないが、正式に断罪された人々が70年立ったら、英霊として白昼堂々とうろうろしているというのもいかがなものであろう。一方で、「云った・云わない」で数少ない、女性委員長をこきおろす国会というのは嘆かわしい。
   それは、日本では、明治以降、「異なる階層」という概念が社会的に共有されてこなかったことによる。つまり、「二元論の重層性」という概念が育だっていない。むしろ抽象的な「階層概念」を「社会階層」に還元した、江戸時代から続く身分制の維持・差別の容認という左翼からのレッテル張りが優勢だったことに起因する。それで、【ことわり・道理】の関係に見えないので、【母語か母国語か http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20110531】に代表される「用語のヘゲモニー闘争」が頻発する。【万葉集古今集か】なども同種の徒事。
  さし迫った課題解決のためには、どの「階層概念」の問題として処理すべきかを慎重に議論すべきなのに、そこに踏み込めない人たちのなんと多いことか。だから犯罪人か英霊かという論理だてにすら野党は反撃できないのだ。
    ここで、【式1】に戻って、【ことわり;謝絶・弁解】【道理;どーりで、と納得】の義がついていることにも注目したい。両者は相補関係として運用されてきていることがわかる。この多義性を嫌って、もっと中立なあるいは無色の一義の別の二字漢字語を草案して悦にいっている文化人が日本人の脳内の階層構造を壊していく。記号の外部依存性が原理である以上、頻繁に使われている、あるいは歴史をかいくぐってきた固有名は多義性を獲得している。それらを大切にするということが歴史を引き継ぐということである。
    次に、『古語の謎;白石良夫』の中のp191の「春の闇はあやなし」の香川と宣長の訳語「甲斐なし・わけなし」を対比すると、【式の2;分配の多寡】に関連する「失望・納得できない」という「評価」に関連していることがわかる。そして、前者は個人的な失望だけに還元されやすいのに対し、後者の方は、「理由がない」という不条理の義も含んでいるので広い。それは個々人の社会的正義への関心をふくむので近世的心性になじむ。その上、後者の方が「ことわり・ことわざ」と音でつながるから、優れていると考えることができる。
   ところが「わけなし」単独でみると「わけない(簡単だ)」「わけへだてがない(差別しない)」が導かれる。後者の卑義は「味噌も糞も一緒くた」の義だから「がんばった人には甲斐ない結果」となる。
   一方、「かいなし」の方は「船の櫂」や「一回、二回」を連想しやすいし、音つながりからは、重要な歌語「掛け語」を導けるので具体的で優れているが、近世以降から現在にかけての日本語では「区切り」という含意は限りなくゼロにちかい。
   ついでに言うと、「なし」は「聞きなし・みみなし・みなし」となれば「理解」の義であるから、訓詁では「わけなし・かいなし」とも「わかる・わからない」の両義を意識すべきである。
   このように「単語」自体よりも、それぞれの単語が読み手にどのような文脈を想起しやすいかが、大問題なのである。読み手はそれぞれの出自や門閥によって、異なる背景という文脈をもつから、その統合の術がもとめられる。以上で、江戸以来の漢心と明治期の翻訳人文科学の問題は、万葉集以来連綿としてつづいてきた音のつながりを軽視していることであることがわかる。
   だから、修辞論においても「metaphor」の概念を日本語で理解できない。類書では傑出している尼ケ崎彬氏の『日本のレトリック−演技する言葉−』でも満足のいくものではない。富士の高嶺に「よそおえて」いうならば、やっと田子の浦に出たところであって、御殿場さえも、はるかに遠い。
    「metaphor」の第一義は「meta-form;transform」であるから、まずは「暗喩」になる。空とぶ蝶や蝉を地虫と関連付けるには誰かから教えられなければフツーはわからない。教わった本(もと)が本説や証人としての母親・教師。対義の「明喩simile」は仮名序の一番目二番目の「そえ・かえし」に相当し、「辞や字の類似」による語義解をとりあげている。二字漢字語で近いのは「基音・順音・逆音・縮音」。例示すれば「この花・木の花」や「そう・そうそう・うっそー・うそ」。
   ここが定まれば仮名序の三番目四番目の「なずらえ・たとえ」は「比例・仮令(反比令)」でまず間違いない。「なずらえ」は「有名人御用達だからいいものに違いない」とか「姿がモニターに写っていたから犯人のようだ」などの文例。
   「たとえ」は仮名序の例示では「真砂の数」だから「数の多さ・個体の大きさ」が反比令することから引いてきている。「量概念」の素養で大事なのは「二倍・二分の一」のどちらの義であるかだという歴史認識が欠けていると訓詁読解はむずかしい。わかりやすい例は、下手な俳優の大仰としか感じられない「をぎわざ」。俳諧が重視する「をかし」はここが発生源であろう。あるいは「たとえ火の中、水の中」のような極端な事例。漢文に頻出する「八」による文飾もこれである。「矛盾のたとえ」もここに入る。
   これで、仮名序の五番目は「よそおいの論・ただ事」にきまる。両者あわせて「あらゆる論議・議論」であるが、生活の中心であるから男女や社会階層のすみわけも大事。
   「よそおい」の例として選ばれた女性が「安積山の采女」で、中心は「掛け語」。あるいは「音による引っかけ」「ほのめかし」「ひねりをきかせたお世辞」などなど。六歌仙では教養のあるとびきり美人のお姫様の小野小町が相当する。源氏物語では「五条にすむ卑しい夕顔・つくしの玉葛」に引き継がれる。いずれにせよ、ぐだぐだと葛や蔦のように長い話・おしゃべりが基本のイメージ。次のただ事をまつりごとに関連づけるとすれば、ここは民草のもの。真面目に対してのたわむれ。しかし臨機応変、すなわち機知・気転の世界。
  仮名序で例示されている「ただ事」は、「掛け語」の蔭にある「欠け語」を例示し、英文法で修練した反実仮想の文例。ここがトラウマになって現代になっても議論とは男のおしゃべりに過ぎないといって「黙ってビールをのむ健さん」がもてはやされてきた。だが、優れた文章は簡潔であるべきだし縮約作成とその解読能力は出世の大事である。「牛のよだれのようなもの云い」とは無能な男の代名詞。そのための修練としては文辞修辞を駆使した詩文韻文のたしなみが早道。もちろん長歌に対する「短歌・反歌・返歌」もここに入る。
   だから、宣長が二番目の「かえし」をここに関連付けているのは字形「返・反・皮肉」からのなぞらえと考えることができる。もう一ついえば例示歌に「いつわり=嘘うそ」が入っているのは二番目に返していると考えることも自然である。
   だが一番大事なのは「闘論のための技術」だということである。だから「仕かける・仕かけ」を忘れてはいけない。「雅」の原義が「しっかりした牙」であることを忘れた歌道は亡国への道である。ヤマトタケルのように、その「雅・我」をつつみ隠して雅びな乙女に成りすまして、敵をぶったぎる丈夫(ますらお)こそがカッコヨサのきわみ。「しかけ」を読みきれなったハヤトたちが負けるのは当然。
  六番目の「いわい歌」は一番目の「奏上歌」ともだぶっているものとして捉えるべきで、さらに対抗するスサオヲの「宣命・下知」もここに入る。事実、五番目までで六例を出してしまっているわけだから事実上ここは七例目となり、収まらなかったものはとりあえずここに入れておこうということである。だから一番英語で近いのが「meta-form;abduction」。さらに喜撰の評である「初め終わり確かならず」は、ここ「モ」もさす。
   「モ」というのは四元系で考えるならば、「五番目のただ事」が「初め終り」にあたり、「しかける」といえば「初め」のようであるが「しかかる」に比べれば「より進んだ状態」であるから、罠であれば「しかけた」というのは「終り」と考えることができる。一方、「橋をかける」は「初め」だが、「かかっていた橋が欠ける」のは「終り」。

まとめると以下。
比喩;a figure of speech;わけ目・あやめ・あみ目・かいくぐり目
  ・明喩;simile;似た辞音・似た字形
  ・暗喩はそれ以外のすべて。重要なのは五つ
    ・なずらえ(推準の基本)
    ・たとえ(推量の基本)
    ・よそおい;人を意識した臨機応変な「ことわざ」
    ・ただ事(adduction;簡潔明瞭な結語・落語のおち・暗示された結論)
    ・公式の奏上・下知(abduction;証人・本説・典拠・聖典
現代のメタファ例
    ・そえ;葦ハ悪し・蘆ハ良し  
    ・かえし;物実実物・いな否無ない   
    ・なずらえ;人生は旅だ (LIFE is FILE)
    ・たとえ;人生は一瞬だ (LIVE is VALE)
    ・よそおい;実際の源氏物語
    ・ただごと;源氏物語54帖の構成(36帖目・源氏49歳)
    ・初発;源氏物語紫式部自筆原本






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