articulate と日本語・日本文化

 最近「ビッグデータ」関連の露出が目立つ。直近では新谷尚紀氏が柳田國男民俗学の方法その物だといって宣伝に一役買っていた。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3004
  だが私が会社員になって以来、多変量解析はまずは計量国語学によって大野晋バッシングに使われ、その後いくつかの流行語を生み出し、先日まではデーターマイニングという用語でもてはやされてきた。この間の推移をみてきて、日本での定着がなぜ、難しいのか考えてきている。
  たまたまPCの掃除をしていたら、2004年の書きかけ文が出てきた。エスキーモー語の日本人研究者・宮島氏の講義をうけて触発されて書いたもののようだ。文体は発表を前提としているが、発表したことはない。あくまでメモである。ここで、、具象と抽象の日本語訳用語すらが、機能していないことを問題にしている。これは実は、古今集仮名序の読解の鍵になる「転義・対義」の問題にまでつながっている。
まとまっていないが、転載しておく。
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  結論から申しますと、私としては結節でも分節でもなく「節化」としていただきたいように思います。日本語はもちろん消滅言語ではないとは思いますが、establishmentを再生産できない言語ではないかという思いが強いのですが、それは明治以降とくに欧米の多義語を訳者あるいは学者の恣意によって一義語に写し取ってきたコトもひとつの要因だと思っているからです。
  原語が多義であるならば日本語も多義語として置くべきではないでしょうか。とくに articulateは「節が連なっている」という意味が強いのですから、両義語である「節化」あるいは「節を形成する」でよろしいと思います。
   以上の思いのよって来るところを補足のために説明いたしますと、私は化学を学んで会社では多変量解析を使って仕事をしてきたのですが、どうも多変量解析の結果を日本人は読みとれないようなので、どうしてなのか、ずいぶん考えてきました。言語学でも計量言語学が日本でも出てきていますが、内容はあまりぱっとしません。

  あるとき気づいたのは、日本語では大事な言葉がみんな一義語で教えられているのです。たとえば「決心」。このイメージはなんとなく「心がひとつにまとまる」です。でも「決」は「切ること」です。結節の「結」も「むすぶ」の意味はつけたりで古語は「ゆう」で、漢字の原義は糸が切れて末端が真っ直ぐではなく「曲がっている様」を表しています。ですから「結語」は「まとめ」ではなく「文の終わり、切れ目」に過ぎません。「髪を結う」というのは「髪を丸めて頭の上にのせる」という意味で「むすぶ」という意味はありません。
逆に「判断」「決断」などは「切って、切って切りまくる」が本来のイメージです。ここに日本語の知性の限界が凝縮しているように思いました。戦後の日本人の知性は「分ける・分かる」にとどまっているのです。しかし「わかる」というのはそこで終わりなのです。
「わかってよかった。めでたし、めでたし。」
でもそれは匹夫の知に過ぎません。
丈夫の知とは「切って切って切りまくって得られた世界の断面」という「内部の構造」を抽出することです。その上で「次の一手」つまりactionを起こすことです。
それが「わかる」には欠落しているのです。

そこに具象と抽象の落差があります。
具象は集団的に確認できます。
しかし抽象は判断したその人の一回性に大きく依存します。
目で見ることのできないモノを脳という計算機を使って像にむりやり変換したものだからです。しかし高度の組織集団のリーダーにはそういう資質が求められるのです。
  つまり、抽象abstractというのは「平面視野」しかもたない目に情報を依存しているゆえに立体像の把握が極端に苦手な脳が、かろうじて編み出してきた計算方法をさします。実際的にはn次元データを(n-1)次元空間に投影し、さらに最もパターンが顕著になる平面を探し出し、データの構造を抽出するという多変量解析(try and error)を実は手動で行ってきた方法です。ですから多変量解析技術はestablishmentたちの数千年にわたる自己脳をつかった計算の積み重ねがあって初めて生きてくる技術なのです。もちろん日本の士族は漢文を学ぶことで「情報分析」とは「切って切って切りまくる」ことであり、その結果を通してもっともわかりやすいパターンを取り出しcollective thinkingに資することだと理解していました。しかし戦後は、私も含めて東大・京大の卒業生ですらこの基本を教えられていません。つまりestablishmentが不在な社会というのは、多変量解析も結果の受け手が実は不在なのです。
  大事なのは「抽象的にわかる」は「判断と行動を結ぶ」ことと不可分だということです。それは会議でコンセンサスを得るような理解ではなく、リーダーの判断に基づく行為の結果のみにもとづいてしか理解されえないような、責任に基づく理解なのだと思います。それはarticulateになぞらえれば「知性と行動の節」としての「わかる」というイメージなのではないでしょうか。それをきちんと日本人の血肉に植えつけていくということを今こそはじめるべきだと思っています。それを怠れば日本語でも22世紀には消滅言語の一つになる可能性があると思っています。
 あるいは言い換えるならば「知性と行動の節目」たるべき「個人の責任・意思」というものを社会的文脈の中で再生産していく言語が求められているということです。ボアズのもう一人の弟子であるベネディクトが比喩したように日本人にとって身とは刀のようなもので、己の一身によって現実を切り分けていく。それが丈夫であったはずです。少なくとも士族にとっては。
アメリカ帰りの竹中大臣を日本人に理解しにくいのは、そういう彼を支えている「切る→分かる→銀行を健全性によって分ける→駄目銀行の切捨て」という流れの最初にある「切る知」がわかっていないからではないかと思っています。
そういう「分ける」の前にある「分かる」の世界。それはいみじくも「分かって分ける」がまさに節によって固く結びあわされている社会・文化を指します。「分かる」と「分ける」がばらばらになった時、それを古代中国人は「痴」と呼びました。
あるいは「分かる」ためには「分ける」が必要である世界「分けると分かる」を要素還元主義と呼びます。ここでは両者を結ぶモノは単なる認知器官である脳にすぎません。しかし「分かって分ける」とき両者を結ぶモノは脳と身体の分かちがたく結びついた一individualなのだと思います。
多変量解析における「切る」とは断面を求めることですから、「切って切って切りまくっても」けっして切り刻まれることはありません。しかし「分類」では「分ける」という作業の果てに「細分化された現実の断片」が死屍累々として積みあがることになります。
この「分ける」と「切る」の違いに鈍感なままでは、「分かって分ける」の節たるべき個人individualの再生産は困難です。
危機言語の大部分は無文字言語だと思います。それは社会の基盤が具象世界のみからなる世界です。それは私たちの子ども時代につながる懐かしい世界ではあっても、知的成熟を成員全員には求めない、言い換えれば保障しない言語です。日本では武士だけが知的成熟を求められ、厳しく訓育された時代に相当します。
そして残念なことにこれから起こるのは文字言語を持つ文化の間での淘汰生き残りの戦いだと思います。日本語が生き残るためには、成員の大多数に知的成熟を求めていかなければなりません。そのための第一歩が、大げさかも知れませんが、articulateの多義性を殺さない翻訳にかかっているのではないでしょうか。
2004.7.23記述
key word;hinge・pivot
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参考;「日本語の深層にある正濁音対概念 p7;2008年」
     http://midoka.life.coocan.jp/papers/seidakon.pdf


【類型と型】  前段で示した表1がルース・ベネディクトの型である。有名な『菊と刀』は比較文化論の範疇に入れられているが、これは類型をもちいた日米比較論ではなく、中心にあるのは「義理」「まこと」などの規範概念語彙についての日本語通史と英語通史の比較対照になっている。つまり構造を持っている。その通時対比の部分で使われているのが、この方法である。これは例数を必要としないというより例数が多いとむしろわかりにくくなる。ここでも一例しか提示していないが、筆者自身は似たような図式を何枚も何枚もを記述してきている。その中でもっともわかりやすい図式が今回提示した表組みである。つまり型による分析とは、成功するまで試行錯誤するという方法である。
   実は作図作業自体はコンピュータで行うことが出来るので、これを世上、多変量解析とか計量分析とかいう。だが、結果出てくる各々の図式を評価するのは人間でなければ出来ないので、この方法は研究者のパーソナリティに大きく依存する。もっといえば、研究主体の問題意識の鮮明さ、その知的力量、繰り返されてきた経験の巾、そして方法への熟達度によって選び取られる図式は異なってくる。だからこの方法を主観的と貶める向きもあるが、この方法は既に長い歴史をもち、評価する人々の間では〈内観・観照〉と呼ばれている。