旧暦

  日本語の数とか量とかの語彙の変遷を考えてきて、度量衡の次は暦の問題を整理しておく必要があるように感じ、今年の前半は、そういう書物を読んできた。吉野裕子の陰陽五行もそういう位置づけの中で読んだのだけど、そろそろそのものずばりの「旧暦」に関する本を読み始めた。『旧暦はくらしの羅針盤NHK出版』と『暦の語る日本の歴史;内田正男』の二冊。筆者はともに戦前生まれ。
  内田正男氏は東京天文台でながく専門的な研究をされてきた方であり、その立場は計量法の専門家で普及書を書いている小泉袈裟勝氏と似ているが、文章の書き方は微妙に違う。それは度量衡はその単位を中国に仰がず、というより全国的な統一単位が正式に法制化したのは明治維新をもってであるのに対し、暦は冬至を一年の始めとし、さらに月食や日食などの天体の観測において物理そのものに規範をおいてきて中国との齟齬を気にしながら我が国の活動も千年以上行われてきているからである。
  NHK出版の方は最近のニュースで必ず24節気にふれるのだから、なにか必然性があるのだろうと思って手に取ったのだけど、内田氏の立場と反対からの論述なので、頭を整理するのに役にたった。まずわかったことは旧暦は二面性を持つということである。日本の歴史上のシステムやそれを支える概念はほとんど二重性をもつ。よく言えば融通無碍。悪く言えばなにがなんだかわからない。これをよく言えば日本人の大好きな「奥深い」ということである。
  もう一度これを裏から見るとそれなりの家格の人が言えば、庶民はその言を鵜呑みにするしかないということである。これは天皇を頂点にいだきながら、よくも悪くも、多くの姓(カタカナでいえばギルド)の表面下での足のけりあいによって政がつづいてきたことの結果である。そしてこのような領域に不用意な発言をするとギルドの恨みをかって、どんな災難にまきこまれないとも限らないので、多くの人は見てみぬふりをし続けたのだと思う。だから旧暦について整理するならば、いい面の前に悪い面を勇気をもってきちんと整理することが大事だと思う。両書とも、その点を避けてはいない点を高く評価する。

■丙午    出生率の低下がメディアでにぎわう時は、その元に出生率の年毎のデータがある。なかなか長期データのグラフにはお目にかからないが、それを見ると1966年の出生率のデータだけがピョコンと落ちている。それは「丙午に生まれた女は亭主を呪い殺す」という暦の本家である中国人もびっくりの日本だけの俗信があり、それを信じていない人も結局は出産を控えたからなのである。
  その60年前の庶民は「生めよ増やせよ」というこれまた儒教の勝手な押し付けで、いやな思いをしながら子どもを生んできたのだろう。だが1966年には庶民が birth controle の方法を手に入れ、儒教のありがたい教えからも開放されて、結果旧暦時代の俗信が勝利の数字を達成したわけである。次の2026年には庶民は男女産み分けの技術に頼るのか、それとも1966年と同じ対処をするのか、それとも俗信の敗北と出るのか。あと20年で結果がでる。

■お歯黒     一般的には暦とお歯黒は何の関係もないのだが、私は、民俗を歴史の中で見るときのポイントをお歯黒の歴史から学んだように思う。暦もお歯黒も最初は宮廷人のみの関心事で、庶民は日の出日の入りや月の満ち欠けを見てはいても人生の一大事とは考えていなかったはずである。だが6世紀にまず宮廷に入り、さまざまな儀式が行われるようになると、それが庶民のあこがれになり、民俗としてより下層の社会に普及していく。そういう点で暦とお歯黒は似ていなくもないのである。
  当然上層階級は、その民俗を嫌えば、統制するし、あるいは別 version のみを民に下賜する。だがその由来や正式のカタチは秘伝として庶民には直接は伝えられない。そうすると「私は知っているのよ」という人たちがそこで商売をすることが可能になる。江戸末期には、暦もお歯黒の原料である鉄漿も、立派な産業商品だった。
そして旧暦もお歯黒も明治維新によって庶民の気持ちをさかなでしてでも旧弊として葬り去られたのである。その中にあって暦と度量衡は新政府が新しいシステムの確立普及に躍起となったものであり、お歯黒はメディアを使って時間をかけて葬り去ったものである。

■24節気     旧暦を太陰暦だとする説明を見かけるが、それは不十分なのだ。庶民にとっては月の大小と実際の月の満ち欠けがだいたい一致していれば、その日読みを安心して使うことができた。だから庶民にとっては月の暦、すなわち太陰暦ということになるが、少しでも漢字を勉強していれば太陰という語は太陽と対をなしてはじめて意味を持つことは自明である。だから太陰暦太陰太陽暦の略称に過ぎない。太陽暦であるためには24節気が必要となる。
  だが中国の24節気は冬至を基準に定められたものであるし、中国でもグレゴリオ暦の採用までは太陰太陽暦だったのだから、あちらを立てればこちらがたたずで、どうしても暦の月読みと24節気はずれていくのである。だから現在NHKがニュースで告知する24節気は旧暦の月読みを基に、完全太陽暦である現在の暦の日付を割り当てて告知しているに過ぎない。それで実際の季節感ともずれざるを得ないのである。さらに旧暦は1年が254日だったから、年によって閏月がはいっていた。まさに庶民泣かせの専門家盲信のシステムであった。

■年のはじめ     暦の歴史を勉強してきて最後までわからなかったのが、この点である。当初は「正月」しか浮かばなかったが、いろいろ組み合わせていくと、月の名がつながらない。そうこうする内にそういえば官庁の年度は4月からであることを思い出した。以前外国人から見ると4月の「一斉入社式」がいかに珍妙かをいわれたことも思い出した。
  だが実はもう一つ、日本には「年のはじめ」があるのである。それが「八月」。なんと日本は暦のシステムを中国からそっくり輸入したように歴史では習ったのだけど、実は冬至ではなく秋分が日本の太陽暦の基準としてしっかり組み込まれているというのである。
   旧暦の日本も、中国も東南アジアもそうであるが庶民の最大のお祭りは1月の満月の夜。反対の言葉が「八朔」。これは宮中行事として知られているが、つまり「八月の朔日」も年のはじめなのである。そして八月は秋分の日を含まなければならないのが日本の暦だった。ここで大事なことは満月は庶民が実感できるが朔日は暦の専門家しか正式には決定できないということである。
  そう、暦を庶民に普及する必要はあったけど、宮廷と庶民が同じ暦を持つのはイヤだったのである。徳川家康はわざわざ八朔の日に江戸城に入城して、この日を祈念している。
  もっと言うと、未だ火を使いこなせない時代からマツリがあったとしたら、それは満月の夜でしかありえない。そういう時代が何年続いたのだろうか。1万年か。10万年か。そしてついに人類は火を制した。それは当然一部の支配階級が制したのであって、奴婢などにとっては無縁の出来事だったはずだ。だが支配階級にとっては満月に取って代わりうるものとして火をシンボル化したかったに違いない。
   その時から朔日は支配者とその末裔である巫女の祈念日になったのであろう。篝火が輝くには満月は邪魔なのだ。満月を恐れたのは狼ではなく、理によって生きる民衆の本当の知性と活力を支配しようとしてきた一部の呪術者たちだったのだ。そこで朔日の祈念日を秋分を含む月におくことにした。それは農暦の終わりにあたり、その年の豊作を感謝し、次年度の安泰を祈願する複雑な一連の儀式の始まりを意味していた。伊勢神宮で行われていた新嘗祭をふくむ一連の冬至祭はまさに〈終わりの終わり〉のハイライトだったはずである。
  なお、漢字はダテに〈初・始・発〉と三つあるわけではなかったのだ。〈初日、仕事始め、出発〉。日本語は三つの〈はじめ〉を持つのです。そして〈はじめは、終わりのはじめ〉〈終わりは、はじまりのはじめ〉。これが日本人の時間観でした。忘れたくないものです。当然〈ついの住処〉は〈はじめの住処で、かつ、おわりの住処〉なのです。この語感を見失うと過去の民俗や習俗の体系、すなわち祖先の宗教的思考そのものを見失う。

■二期制   明治のグレゴリオ暦の導入もお上主導で、庶民の知らないところで決まったが、最近の二期制の導入も庶民の知らない間に着々と実施されている。中学校は今年から三学期制ではなく〈春・秋二期制〉になった。これにより世界の秋新学期制地域との転校転入が容易になることは喜ばしいことである。四月の一斉入社式も下火になってきているようである。でもだからこそ旧暦を知らない人間による旧暦の記述が必要になると思う。