「デカルト=ニュートン主義」と「文化記号論」と

シルヴァステイン博士を囲む対談要録の最後が掲載された、『言語 2007年 6月号』では、編者注として「コギト」という有名なラテン語を引用して、デカルトが近代科学の負の部分の土台であるという。だがデカルトデカルトたらしめているのはラテン語で書かれた多数の論文ではなく、彼の母語、当時は学者が使うべきではないとされていたフランス語で書かれたエッセー「方法について」である。つまりヨーロッパ言語通史を、もしも書くとすればダンテの『神曲』による文学の土着化、ルターの『聖書の翻訳』による宗教の土着化、そしてその中間点に来た「科学の土着化」、という栄誉をデカルトは担っている。そしてこの事実はそのままヨーロッパの啓蒙史がイタリア、フランス、ドイツという、その中心地の北上の歴史とかさなることを示している。
      ところが、ヨーロッパ啓蒙史の領域では、アメリカの宗主国だったイギリスの役割はほとんど語られることがない。それはなぜなのだろう。それはニュートンが偉大だったからというより英国王立科学アカデミーの政治力が大きかったからだ。そしてこの機関の武器は英国王によるナイトの称号授与であった。それはたぶんノーベル賞の創設まで世界最高の栄誉だったはずだ。その威光によりニュートンはわが国の雷神に比定されるべき神となり、デカルトはその卑神の位置に貶められた。そして英国科学アカデミーの公式言語はラテン語聖書と数学だった。別の言い方をすれば、イギリスは国内に対して文化鎖国をしいたとも言える。
      それは、ニュートンの最大の業績、ローマ法王によって破門されたガリレイの地動説と従来の天動説とを統合したことを、門外不出とする必要があったからである。
      その理由はニュートンの方法にあった。
      それはあまりに大胆であった。
      そのことをニュートンと彼の同時代のエリートは熟知していた。
      だからニュートンは『プリンキア』をラテン語と数式に閉じ込めた。
      それが大衆の目に触れるようになるには100年以上が経過する必要があった。だが21世紀の現在でも、その意味についてよくわかっている学校理科教師が日本に何人いるかといえば、かなり心もとない。それはニュートンの第一法則が〈相対論〉そのものだからだ。ちょっと考えればわかることだが「等速度直線運動を静止運動とみなす」という記述が相対論でないとしたら何を相対論といえばいいのだろう。これに比べれば宦官〈趙高〉の「馬を鹿とみなす」も、古代ギリシャの生物か無生物かというソクラテスの三段論法も、児戯に等しい。この相対論を超えたのはゲシュタルト心理学の「老婆と若い女の寓意」である。

      しかも、第一法則はガリレイの創案の焼き直しにすぎず、第二法則もライプニッツデカルトなどアラビア数学を学んでいたものにとっては公知であったと言えるから、これも厳密にはニュートンの創案とはいえない。
      ニュートンの創案になるのは第三則のみであるが、これこそがガリレイの運動則を相対論から救ったのである。だが、その解釈は、現在でも奥義に閉じ込められている。それで、結局ラテン語で書かれた第二法則を数式に変換したものが現在世界に流通しているニュートンの遺産である。そして、それはアインシュタインによって書き換えられたことになっている。だがアインシュタインはそれにより実は奥義である第三法則解釈の最高神官の地位についたのである。
http://midoka.life.coocan.jp/papers/IM99DEC.pdf
     さて、シルヴァステイン博士のニュートンへの言及を読むと、この人はデカルトニュートンも知らないことがバレバレになってしまった。いや「科学と技術の異同・同異」もそれほど気にしておられないようだ。デカルトニュートンも技術に無関心でかつ、数式を扱えないほどのお馬鹿ではなかった。だが彼らは人一倍「科学と技術の異同・同異」についてよく知っていた。社会的成功には技術が大事だが人類全体への貢献には科学のほうが大事なことを知っていた。なぜなら技術とは分割して効率的に支配することで、科学とは蒙昧な自分をも含む一人一人の大衆の〈心身・身と心〉の中にしまわれているバラバラな事実や情実を統合することだからだ。 
http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20061214/1182215131
      では、outrageの残り火が反映した、いささか悪意にみちた前書きを終えて、6月号の紙面にある最初の見出し「イーミックな視点とエティックな視点を統合した言語学へ」という連載全体の主題について考えてみよう。ここでの重要なキーワードを4月号の編者注から日本語に訳すと〈エッティク・外部からの視点〉〈イーミック・内部からの視点〉となる。だが、シルヴァステイン博士の業績の中心にある Hopi 語は、博士にとって、果たして〈イーミック・内部からの視点〉足りえるのか、という疑問がすぐに浮かぶ。博士にとってはウォーフにとってもそうであったように Hopi 語は、あくまで〈object〉でしかありえない。「対象をよく研究したら、対象の中にはりこめる」というのは古代から多くの人が犯してきた間違いに過ぎない。
      ウォーフや博士が Hopi 語に西欧語とは違う音韻や文法の分節・連関を見出したのは、両人がそのように見たいと思ったからである。もしも普遍を愛する人がみたら、彼は必ずや、 Hopi 語の中に「普遍的な規則性」を見出したはずだ。〈普遍・個別〉という分節・連関も所詮は〈あひる・うさぎ〉〈鹿・馬〉などの分節・連関の一つに過ぎない。と、こう書くと、必ずそれでは現世の秩序が崩壊するように感じて不快になる人が出てくるはずだ。だからこそ「相対主義」は嫌われてきたし、ちょっと間違うと「なんでもありのポストモダン」に堕する。だから隠されてもきた。隠されたものは神秘主義と呼ばれる。ウォーフが生涯、心酔していたのが19世紀初頭のフランスの神秘学者アントワーヌ・ファーブル・ドリヴィエである。
さらに言うとBoringの「老婆と若い女の寓意」について、アメリカ経由のギブソン流解釈は重大な一点を奥義にして、民衆から隠した。それは人間の脳は同時には一つしか見えないという事実をである。つまり「若い女が見えているときには決して老婆は見えない」、ということをである。これは物理学を学んだ人には公知であるが、日本の人文科学系でこの事実の重大さに気づいている人は少ない。だがこの事実は、分節・連関概念の崩壊を意味する。そして学者の流派をも無効にする。言い換えれば普遍主義も構造主義も機能主義も伝統文法も、それぞれが最初に見えたものを見て詳細に記述を重ねているということである。どこまで行っても老婆が見えている人には老婆しか見えないし、若い女が見えている人には若い女しか見えないのである。ドナルド・ノーマンはギブソン流を訂正して「新アフォーダンス理論」をいいだした。まとめると味もそっけもない言い方だが「人間は見たいものを見る」ということである。
     さて、本文記述にもどろう。、さすがに博士は〈John B. Carroll〉のようなアメリカ言語王国史観を正面にはださず、〈Franz Boas〉に敬意を表してはいるが、それにより博士の立場がアメリ文化人類学国史観であることが丸見えになってしまう。その部分を引用してみよう。〈Franz Boas〉の業績として「先住民諸語には先住民諸語特有の欧州言語には見られないような音の範疇、文法の範疇があることを実証して見せた」と書いている。これにより欧州言語の相対化は北部アメリカ大陸の先住民言語の存在抜きには不可能だったという印象を与えることに成功している。
      それを駄目押しするかのように次のページで「デカルトのコギトに代表されるような近代的な思考がどのようなものであるか、どれほど特殊なものであるのか、それはどのようにしていつ成立したのか、そのようなことをサピア=ウォーフの打ちたてた言語人類学は研究するのです。」と結ぶ。最初に「文化記号論」という言葉を聞いたとき、エーコの「記号論」とどこが違うのか気になったのだが、ここまでくると要するにボアズの文化相対主義に事寄せて、アメリカが一番とか新大陸の占有を主張したいときに博士は「文化」を便利なロゴとして使っているとかんぐりたくなる。
      結論を書こう。
      博士に欠けているのは少なくとも二つ。
      一つは、文明の歴史とは相対化の歴史だという「繰り返し史観」。それは新教徒の進歩史観と対立する考え方だ。
      それとフランツ・ボアズがなぜルース・ベネディクトを評価したのか、その理由を謙虚に考えることだ。彼女は実は先住民の乳母に育てられているのである。乳母は休暇には彼女を伴ってたびたび居留地にもいって、そこで彼女は数日をすごしている。つまり彼女の場合は間違いなく英語も先住民語も〈イーミック・内部からの視点〉で見ることができた。別の言葉で言えば〈一緒に身体化〉していたのである。だが、バイリンガル、つまり二つの言語を内に持つということは、実は二つの身体を内に持つということである。それはなかなかに厳しい現実である。
      日本の近世はこれを「三代つづく江戸っ子」「三つ子の魂、百まで」という言葉でまとめた。異なる文化が根付くには時間がかかるということである。ただしこの時間とは月と日がぐるぐる回った回数ではない。人々の相互理解への努力の積分量だ。しかも、その努力の中心に知恵を生み出す魂がなければならない。ベネディクトは身の内にある二つの言葉を統合するために努力をした。そのことが彼女を孤独で物静かな人格へと導いた。それが詩作と思索の道へと彼女をいざなった。それは実証主義と決別するという決断をへて『菊と刀』へと結実した。
      念のためにいうが、私は若い時期に実証的な比較対照研究に従事する機会に恵まれたことを誇りに思っている。
      だが、実証はよい研究の要件ではない。よい研究の要件はテニエール先生の言う「よく訓練された研究者」である。
      そして、現在の日本という場で考えるとき、実証主義の旗印が、権力にすりよって公的資金を得ることが「価値」であり、「科学のすべて」であるというメッセージに堕していないか。その結果として「科学の土着化」を阻止する役割を、実証主義が担っているのではないかと憂うものである。