『さまよえる人ル−ス・ベネディクト』

     私はこの本を「御茶ノ水図書館」が明大通りにあった時分に、そこでみつけて一気に読んだ。こういう本を日本語で読めることに感謝した。そして女性研究関係の本がそろっている開架式図書室にたどり着けた幸運にも感謝した。
     だが原題 "A STRANGER IN THIS LAND" から「さまよえる」を導いたのは感心できなかった。別のベネディクト・ファンは「みなしご」という語を当てていたが、それもいかがかと思っていたところ、翻訳者の留学先がシドニーであったことを最近、知った。辞書にまで豪州では "stray sheep" を "stranger" と呼ぶとある。
    だが、本の題名というのはその言語の慣用句と関連づけて選択すべきだと思う。日本語では、すでに「さまよえるオランダ人」という語句が定着しいる以上、そういう語句は避けてほしかった。
    一方、聖書の句が必須知識である西欧では "stranger" "stray" の両語は「キリストのもっとも愛しい幼子」の意味を持つから貴卑同源語である。だが日本ではキリスト教の浸透はそこまで行っていないから「さすらい人」は、イメージの不鮮明な文語でしかない。それにここからは憶測ではあるが豪州やニュージーランドで "stranger"の呼び名が広まったのはむしろ聖書からの意味が強く固着している "stray" を排除して、〈困り者〉〈はぐれ者〉〈はみだし者〉というニュアンスだけを前面に出したいという欲求があったと考えることができる。
    一方、日本民俗学の領域では貴賎について〈異人・客人マレビト〉の対語を使うことになっている。〈まれびと稀人〉であれば、優れていて奇妙な人となるので、ベネディクトにふさわしいと思うが、二字漢字語〈客人〉に学術用語が還元されている以上、使えない。それに、、ここではベネディクト自身の社会への距離感をも表現しなければならないのだから、存在語である〈稀〉では不十分だ。
    ここでは結論を出さずにいくつか候補をあげてみたい。

(1)変わった人

これは二字漢字〈変人〉をひらいた形である。そして〈変人〉は〈奇人〉とともに現在でもよく使われる。意味としては〈変だから駄目〉〈変わっていて面白い〉の両義がある。周囲から孤立したときには自分に対しても使って、親しい友人に「私って変かしら」などと情報収集をする。だからこれは自分が周囲に溶け込めていないことを表現するのにも使う言葉である。

(2)さすがの人

    これは当て字で〈流石〉が用いられるが必然性がないので、音韻から導かれた言葉であろう。そしてこれもほめ言葉と承認の保留という両義語である。さらに音韻の擬逆語序対を作る。すなわち〈さすが・がさつ〉。〈承認の保留・中つり〉の語としては、源氏物語にも登場するこの言葉は、現実のベネディクトの社会的ありようを一番よく表しているように思われる。なぜならば、「文化の型」の書き手として圧倒的な支持をえて、日本文化にも貢献したのに死んだ後に、反論もできないのを言いことに、男どもに、よってたかって利用され、軽蔑され、その成果だけは白人の男に勲章に利用されたからだ。それでも物事をわかる人々はちゃんと彼女の偉大さを、つまり能力と能力を全体のために一心に使い切ったけなげさを認めているはずだ。そういうのが〈さすがの人〉なのだと思う。なお、大辞林には〈さすが遉さぐる〉の字も載っていた。原義は〈占ってきく〉とあるから、巫女や預言者とも関連があることになり、〈あやし〉とも意味が重なる。

(3)あやしの人

    現代の「あやしい」には「いかがわしい」の意が勝ってしまっているが、もともとは神秘性や霊妙さに対する素直な感嘆と一方でそれに対する恐怖や不信の感情を表すやはり両義語だった。文化相対主義の基盤となるキリスト教神秘主義を確実に自家籠中のものとしていたベネディクトにふさわしい形容詞だと思う。人一倍予知能力や判別能力を持ってしまった巫女なども必ず、当該集団になじめない孤独を感じてきたはずである。二字漢字語は〈奇人・畸人〉。〈奇〉は〈奇数〉を作るので、〈あまり者〉〈余計者〉のニュアンスにもつながる。そこから〈みなしご〉というニュアンスもでてくるが、〈みなしご〉から、〈奇・畸〉を導くのは難しい。