学力テスト問題の問題

  これはテレビを見た心象の報告なので、あまり正確ではないが、こういう問題に関心のある方向けのメモ。ニュースで紹介されていたのは図示された、二つの公園のどちらが大きいかを問う問題で正答率が2割を切っていた。それゆえ知識ではなく考える力が不足しているという大方の新聞の見出しを支持する文脈で報道されていた。
   前提に二つの公園の形は長方形と平行四辺形で、それぞれの公式から面積を求める問題については正答率が9割を超えているというのだ。問題も紹介されていて、平行四辺形の一辺の値が地図上の離れた部分に記載されているのだった。それで二つの四角形の大きさは(記憶によると)1050平米と1010平米だった。
    ニュースの心象だけから言うと、この報道にはいくつかの問題があると思う。以下列挙しておく。
(1)両面積の違いは5%だから、そして多少は離れた場所においてあるので、目視ではその差は判別できないと考えられる。とすれば問題を解けない児童が正答する確立は50%のはずだ。正答率が2割を切っているというのは、低すぎる。可能性としては二つ考えられる。
A)同じ面積の平行四辺形と長方形では心象が異なることが心理学的に知られている。それを前提に目視で答えた生徒はすべて誤答になるように問題が作られていた。
B) もっとひどいのは、正答と目視図の大きさが逆転するように図が描かれていた。つまり引っ掛け問題だった。


(2)選択式の試験で、そもそも考える力は図れるのだろうか。
    これもどこかのブログで見ただけなので間違っているかもしれないが、今回の試験問題はある教育産業、つまり中学受験や高校受験を商売にしている会社に一括受託されて問題が作成されたという。とすればそういう会社には私立学校が求める能力を判別する試験問題のノウハウが蓄積されているはずだ。そして文部省から依頼されて問題が作成されたとすれば、文部省から、「基礎知識と考える力の差が極端に出る問題をつくってほしい」といわれれば、そういう受験問題からそれなりのものを提供することは十分可能である。
    とすれば、このテストで考える力がないとされた生徒というのはこういう引っ掛け問題になれていなかっただけ、という可能性が高い。


(3)知能テスト、いわゆるIQテストの功罪については文部省と報道機関はどのくらい勉強しているのだろう。
   もちろん、一般的にはIQテストはそれなりの子供の潜在能力を反映する。だが、当然、反映しない場合もある。それはどういう場合かというと子供がIQテストの実施ということにまったく動機付けを感じない場合である。問題を読む気がなければ、その子に読む能力があるかどうかは分からないのである。
   だからテスト問題に子供が考えてみようという動機付けが伴わない場合は当然正答率は低くなる。私立学校時受験の場合は私立学校は、学力だけでなく、学校が課する課題に積極的な姿勢を持つかどうかも判断していくわけだから、いわゆる引っ掛け問題であっても、それについてくる積極性がない子供を排除する自由は私立学校にある。だが、公教育の責任はすべての子供が危機的状況におちいった時に最後まで踏ん張る気力と最小限必要な社会技術を子供たちの中に涵養することにあるのだから、私立学校受験に習熟している業者の提供するテストで子供の学力を測るのは、そもそも油を水と仮定して事を進めるようなものではないのか。


(4)一番問題なのは、こういう引っ掛け問題というのは、習熟することができるということなのである。
   つまり塾に行ってこの類の問題を繰り返せば、点数はあがる。だが、それを考える力がついたというのは江戸時代の庶民がお歯黒やチョンマゲを結えるようになったから平等な社会になったというのと同じくらい奇妙な認識だ。
    後学のために、昔、まだ会社にいたころの経験を思い出しておく。
   全社からの選抜集合研修で「問題をよく読んで指示通りにしないさい」という時間があって、膨大な計算問題が配られて。当初は、私も問題を解き始めたのだが、その問題は企業研修にはふさわしくないし、解くことに意味を感じることが出来なかったので、おかしいと思って、問題用紙を最初から読んでいったら、二行目に「ここまで読んだら鉛筆を置いて、正面を向きなさい」と書いてあった。それでそのようにしていると、10分位して隣の人が、私の顔を覗き込んで「気分でも悪いのか」と聞くので、「ううん」と答えたら、しばらくしてその人も正面を向いて作業をやめた。それからしばらくして、私とたぶん隣の人をよく知っている人たちがおかしいと思い出したらしく、何人かが作業をやめた。
    つまり、その研修はその研修を請け負ったコンサルタントの思い通りの展開になった。そして、そのキーパソンは私だった。その当時、私の鼻が全くヒクヒクしなかったと言えば嘘になる。だが10年以上たった今は違うものが見える。
     こういう問題で人を序列化したとしたら間違いだということだ。一つは既にこういう問題を知っている人はコンサルタントの望むように行動することが出来るからだ。二番目に、与えられた問題に興味を感じたり、意義を感じている人がいたとすれば、その人は周囲に惑わされることなく、課題に邁進するのがもっとも正しい行動のあり方だからだ。


(5)持続可能な社会とは多様な社会である
    どうしてノルウェーが学力テストで高い点を取ったからって、真似しなければならないのだだろう。というより何を真似すればいいのだろう。彼らは彼ら自身で目標を立てて、達成した。それだけのことだ。アメリカはかつて日本に開国を迫ると決めて、それを実現した。日本をやっつけると決めて、それを実現した。それだけのことではないか。日本は飢え死にしない国をつくる。平和な国をつくる。そう決めてつくったんでしょう。胸張って生きていけばいいんですよ。本当に困難が来たら、その時考えればいいんですよ。そうなったら今えばっている人が役立たずだってことだけははっきりするでしょうね。
    いくら問題に指示が書いてあっても、そのとおりやってうまくいくこともあるし、長期的には指示を無視した人が役に立つこともあるのである。私立学校と公教育は目標が違うのだから、受験産業コンサルタントの言いなりになったり、ましてや、そこから試験問題を買うなどもってのほかだ。
     そもそも、多様な人々による持続可能な社会という大前提からすると、9割以上の子供が「平行四辺形の面積は底辺かける高さ」という公式を呪文のように唱えられるという方が気味悪くないだろうか。「そんなこと、どうでもいいじゃないか」、と思った子は登校拒否になるしか無いんじゃないの。
     図が既に出来ているなら、目があるんだもの、しっかり比べれば分かることじゃない。それに公園となれば面積が多少大きいとか小さいとかよりも、遊びやすいか、遊具は壊れていないか、とかの方が大事でしょう。まだ図のない土地の大きさの比較はどうやったらいいのか、こそが考えるに値する問題なんですよ。そういう未知の課題が見えにくい時代に子供の想像力と創造力を育てるのは本当に困難なことだと私も思う。
      だからこそ大事な問題なんですよ。そしてそういう根本問題の解決方法は統計処理できる枠組みからは出てこない。そのことを白人女の書いた『菊と刀』は主張しているのである。


(6)子供は大人の背中を見て育つし、人は人によってのみ、人になっていく
    ここまで考えてくれば、 「平行四辺形の公式」なんだから、9割の子供が同じ答えでもいいというわけにはいかない。なんせわが国は、「悪いことをしたんだから罰せられるのは当然」って公式を暗誦させて、そこに「盗んだんだから死刑になっても仕方ない」って御託宣をテレビで流しこんでいく国なのだから。一方で、そこに「兵隊さんは天皇陛下万歳っていって死にました」「日本は美しい国です」などを入れれば、結局、日本は何も変わっていないことになる。
     子供に考える能力を育てたければ、大人が考えることだ。報道番組からして、一面的で水洗トイレのような間歇的なシャワーが出てくるだけでは駄目なんですよ。