動詞の可能形・終止形

   学校文法では動詞の活用について以下のように整理する
【未然】【連用】【終止】【連体】【已然】【命令】
   もう100年近く、こういうめちゃくちゃな体系を後生大事にしている業界って不思議な存在だ。これでは学習障害児が多産されるのも理である。そしてときどき「正しーい!日本語」キャンペーンがメディアを通して噴出してくる。訳がわからないものをありがたがっていると、つまり共同幻想が行き着くとこまでゆくとこういう繰り返しになって、社会は消耗し続ける。
  だが、丁寧に観察すると、こういう事例は日本社会の重層性というか歴史の垢の重なりをあぶり出してくれる。
これは三つの層を仮構すると,わかりやすい。
1)漢字の字形を軸にした分類

【み巳然】 【い已然】 【し己然】
【十二支の6で、朝の10時、つまり朝廷の用語】 【決着ずみ】 【十干の6で、目下をさす】

2)音繋がりの当て字を軸にした分類;巳然以外はすべて「え段抜き」の説明はできない
   【未然】【依然として・已然・】【したまえ・命令】【すでに・既然】【つれづれに・徒然】
3)機能主義による固有名の置き換え
   【連用】【終止】【連体】【命令】


これから先をどう考えるかであるが、辞書をひくとますますわからなくなることだけは言える。
   まず、会社員時代の場面を想起すると、今の大部屋オフィスにはなくなったと思うが、秘書付きの役員の部屋であれば机の上には、「既決」「未決」のそれぞれの決裁書類を入れる箱があり、さらには手紙や新聞などをおく「雑然」があるはずだ。これで【未然】【既然】のおおよその意味がわかってくる。
    だから、「未然」にはこれまた後ほど詳述するが、見当違いな機能に関する固有名「使役」とか「否定」とかが来ることも納得できる。「使役」とは「上申のままにサセヨ」という【許可】であり、「否定」とは「上申のようには思ワザル」という【却下】である。
    学校時代、「子供にご飯をたべさせる」とか「おしっこをさせる」とかいう句が、どうして「使役」なのか不思議だった。原義は「ご飯を並べてから食べてもいいよ、と許可する」「お尻をだしてから、おしっこをしてもいいよ、と許可する」コトだったのだ。
    例えば、「太郎に行かせる」というのは,中世以前では命令を発声する人と、それを実行する人に届ける人とは別れていたわけだから、そういう発声が起きる前段として何らかの「上奏・上申」があるわけである。それを端的に表すのが【主上】【主】【輩】【奴】。
    だから、例文は「二郎を行かせようと思います」という上奏に対して、例えば「二郎ではなく太郎を行かせよ」と言う意味の「下知文」である。当然可能性としては、「いや、それにはおよばぬ」という「却下」もありえる。だから主題は「択一裁可」。
     こういう風に整理できるのは源順の「あめつち48音詩」が基礎にある。その中の「ゆわさる・おうせよ」を類書のように「硫黄猿・生ふせよ」などと解釈していては日本語史の深層はいつまでたってもわからない。参照;「もう一つのいろは;あめつち  http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/JSKR10.pdf
    これは和歌で頻用される「掛詞」を用いて「言申わ」を繰り返し用いることで、「言申わざる・言申わおふ・言申わせよ」を導く。
    次に、【已然】であるが、これについての辞書の説明がごく一部分の説明であることが了解できる。役員室の場面にもどって考えると、「既決」にはいった書類は役員から見れば決着がついた用済みであるが、官僚組織全体から見れば、ここからが活動の開始なのである。英語で言えば「過去完了」で、上長の過去の決定は自動的に継続していくのが原則。
    それを実際に運用継続していくのが謙り語彙にたけた「己おのれら」で、決済していいただいた書類の内容にある「〜したまえ!」という命令を実行し続ける。これも当然、原義は「許可」。だってそうでしょう。官僚組織というのは、きちんと決められた枠組み、つまり文脈の範疇内でしか権限を行使しない、つまり実行もしないことを前提にした組織なのだから。
   結局言えるのは【巳已己】は【巳已】【已己】【巳己】の三つに展開して考えないと失敗するということである。すなわち【巳已;未決既決】【已己;命令受諾】【巳己上司部下】。それを【巳⇔未】だけしか説明しなければ、なにがなんだかわからなくなり続ける。

学校でまず教えるべきは方法であり。人文科学ではまず第一に対語に分解するか、逆に四字熟語を仮構することを習慣化することである。

   さて、次は固有名「命令形」。学校の時はそれほど変だとは思わなかったが、会社を辞めて地域の日本語ボランティアをやりだしたら、もうあきれはててしまった。動詞の原義を考えれば、すべての形式は「命令形」が深層に横たわっている。そのことを【主上】【主】【輩】【奴】になぞらえた家族関係【主】【父母】【兄姉】【弟妹】の軸で見てみよう。

主上 【主】 【輩】 【奴】
【主】 【父母】 【兄姉】 【弟妹】
【やるる事】 【母;おやりッ】 【姉;やってご覧】 【妹;はい、やります】
【やらせよ】 【父;やれy】 【兄;やって見ーy】 【弟;ううん、やめとくよ】
【連体・未然】 【連用・命令】 【て形】 【連用・終止】

    これでは【命令】という固有名を耳にした途端に学習意欲を減退させる子の方が賢いといえる。
    さらにいうと、ふつうはいきなり命令を声に出しはしない。家長やリーダーはまず対手に能力や意欲があるかどうか、見定めてから発声する。すなわち以下。これも含意は「命令」。

【やれるか】 【やりたいか】 【やらおふか】【やらないか】 【やるか】 【やってみるか】
【可能】 【連用】 【未然】 【終止】 【て形】


  上のように見ていくともっとも原初の卑語他動詞「やる」には、実は「やる」「やれる」の二語が隠れていることに気が付く。学校文法では英語になった「他動詞・自動詞」の弁別には熱心だが、この終止形動詞と可能形動詞の二種類の動詞が日本語にはあることには頓着しない。
   だが、両者は根本的に異なる機構で運用される。第一に「が格の適否」がある。以下は例文
◎太郎が、進行役をやる
○太郎は、進行役をやる
×太郎ならば、進行役をやる
×花子が、進行役をやれる
×花子は、進行役をやれる
◎花子ならば、進行役をやれる

動詞「やる」は自動詞形をもたないが、持つ場合はどのような展開になるだろうか。いくつか例文をつくってみると・・・・。

◎この窓が、あくダロウ
◎この窓は、あくハズ
◎太郎が、窓をあける
○太郎は、窓をあける
△花子が、窓をあけラレる(尊敬)
◎花子ならば、窓をあけラレる


◎壁が、今さけるヨウダ
◎壁は、今ならば、さける(可能判断)
◎太郎が、壁をさく
○太郎は、壁をさく
△花子が、壁をさけさせラレる(尊敬)
◎花子ならば、壁をさけさせることができる(可能判断)
補足;花子が、壁をさけラレる(避けるの義の尊敬)


◎月が、今たつ
◎月ならば、今たてる(完了)
◎太郎が、壁をたてる
○太郎は、壁をたてさせる
△花子が、壁をたてさせラレる(尊敬)
◎花子ならば、壁をたてさせることができる(可能判断)


◎桜の花が、今咲く
◎桜の花ならば、今咲ける(完了)
◎太郎が、花をさかせる
○太郎は、花をさかせる
△花子が、花をさかせラレる(尊敬)
◎花子ならば、花をさかせることができる(可能判断)


  最後に他動詞専用の「買う」で例文を作って、ラッセルの確定記述形式にあてはめて考察してみよう。
◎太郎が、この本を買うンダ  (ラッセルの確定記述式変換)
○太郎ならば、この本を買うダロウ  (ラッセルの確定記述式変換)
×太郎が、この本を買える(完了としては廃用)
○太郎ならば、この本を買える(可能判断)
△花子が、この本を太郎に買わせるダロウ  (ラッセルの確定記述式変換)
◎花子ならば、この本を太郎に買わせるダロウ  (ラッセルの確定記述式変換)
△花子が、この本を太郎に買わせラレる(尊敬)
◎花子ならば、この本を太郎に買わせることができる(間接可能判断)

ここからが本論になるのだが、

    前項の『これを金で買いますか;マイケル・サンデル』のあまりにひどい日本語文の由来を考えているうちに、「ラ抜き騒動」がトラウマになって、直接可能形を避けたのではないかと、ふと考えたわけだが、本書の販売促進計画が小沢派を中核にした有楽町での5000人規模の集会と連動していたことをtwitterで知るに及び、「由緒正しい日本語に敏感な層への配慮」が至上命令であったことが了解できた。
    そこで、数年前の「ラ抜き騒動」の時にもっとも全体的な見通しの元に「ラ抜き語彙の合理性」を展開した『日本語はなぜ変化するか;小松英雄』を読み返してみると、「可能形」の祖型として「得る」を抽出している。
   だが、p215にある「書き得る」「読み得る」をいきなり抽出するのはいかがなものであろう。
   他動詞だけでなく、自動詞も一緒にして「完了」の「書けり」「読めり」「裂けり」「咲けり」「立てり」「立たせり」までたどる方が大きな見通しが得られる。もちろん、このような仮構は古典文法のいう「音便」を「くずれ」と見るのではなく規範文法が後生大事に抱え込んでいる「活用語尾」の方を「規範化された正書」に過ぎないと見るということでもある。学会の下克上である。
   もっと言うと、「けり」を助動詞として取り立てる前に「会えり」「陰り」「翔り」「足せり」「なせり」「読めり」「選えり」「綯ゑり」などの「接尾辞り」を概念化するべきだと言うことだ。
     そのように考えることができるようになるためには、まず、「える」について二つの祖型を考えるべきだ。すなわち「うく→うる→得る→エる」と「よぶ→よる→撰る→ヱる」。
   事実、「可能形-potential」「意向形ーvolitional」について辞書で調べると気がつきにくいが、必ず「選択」の義が入っている。
    そうすると他動詞の場合は可能というのは「できる」という可能性ではなく「できたという完了」と「未だ、できない、という不完了」のイメージがはっきりしてくる。自動詞はそれに付随して意味が付与されてくる。

「会えり」 「陰り」 「翔り」 「足せり」 「なせり」 「読めり」 「選えり」 「綯ゑり」 「ゐねり」
「会えた」 「陰った」 「翔った」 「足せた」 「なせた」 「読めた」 「選えた」 「綯ゑた」 「ゐねた」
「会えない」 「陰りなき」 「翔ラレない」 「足せない」 「なせない」 「読めない」 「選えない」 「綯ゑない」 「ゐねない」
「会えぬ」 「陰りぬ」 「翔ラレぬ」 「足せぬ」 「なせぬ」 「読めぬ」 「選えぬ」 「綯ゑぬ」 「ゐねね」
「会いぬ」 「陰りぬ」 「翔りぬ」 「足しぬ」 「なしぬ」 「読みぬ」 「選りぬ」 「綯ゐぬ」 「ゐねぬ」

   ここまで来れば、語末「る」はラッセルの確定記述式によれば「不確定ーだろう」の義が原義にあることが了解できる。つまり「不たしか」である「語末よふ」や「意向の語末おふ」の成立である。(以下2013.1.10追加修正)

う段末形 「会へる」 「陰る」 「翔る」 「足せる」 「なせる」 「読める」 「選る」 「彫る」 「ゐねる」
推量形 「会へよふ」 「かげよふ」 「かけよふ」 「たせよふ」 「なせよふ」 「読めよふ」 「えよふ」 「ゑよふ」 「ゐねよふ」
直接使役 「会へよ」 「かげよ(呼びかけ)」 「かけよ」 「たせよ」 「なせよ」 「読めよ」 「えよ」 「ゑよ」 「ゐねよ」
口語直接使役 「会へy」 「かげゐ(位)」 「かけy」 「たせy」 「なせy」 「読めy」 「えれy」 「ゑれy」 「ゐねy」
未然形使役 「会わおふ」 「陰らおふ」 「翔らおふ」 「足さおふ」 「なさおふ」 「読まおふ」 「選らばおふ*」 「彫らおふ*」 「ゐならふ*」
未然形意向 「会わおふ」 「陰らおふ」 「翔らおふ」 「足さおふ」 「なさおふ」 「読まおふ」 「選よばおふ*」 「彫らおふ」 「ゐねおふ*」
口語意向形 「会おー」 「陽炎*」 「かろー*」 「足そー」 「なそー」 「読もー」 「得よー*」 「彫ろー」 「ねよー*」

   日本語学史を通覧して考えるのは、学者先生方は、大伴家持が何故に、東言葉なる地口を集めたのかの理由について結果と原因を取り違えているのではないだろうか。家持は今の西洋かぶれの言語学者が方言をあつめて血税をつかって「崩れの辞書」を作って喜んでいるのとは逆に、漢語だらけの宮廷語の行き詰まりを、当時の地口によって生き生きした言葉にしようとしていたのではないだろうか。つまり吾妻言葉を大和言葉の祖語と仮構していたのだと思う。