microsoft社の日本語変換ー卑語の問題

      <そこチから><そこヂから>、どちらでも〈底力〉に変換することができる。だが〈そこジから〉を変換するとおかしなことになる。このことでもわかるように私などこのソフトを使うことで日本語の orthography を勉強してるようなところがあるのである。一番頻繁に訂正されるのが、私の場合〈ている〉で、〈てる〉と発音どおり入力すると自動的に〈ている〉と変換されてしまう。上の部分が〈てる〉のままなのは、これを Excel で書いているからで、Word の場合はきっちり訂正される。だから話すように書きたいときは、ちょっと困る場合もある。

      ところが〈地面〉の方は〈ぢめん〉と入力すると駄目なのである。それが文部省の現在の定めだからだ。だが、この〈ぢ・じ〉判別の理論的根拠を私は見たことがない。日本の行政のいいところでもあり、悪いところでもあるのだが〈拠らしむべし、知らしむべからず〉が王道のようである。だが隠されると、その真実をほじくりたくなるのも人情なのである。暇に任せて考えていくと〈天神地祇〉に思い当たった。〈地〉は神様の名前なのである。だから正音が大原則。でも実際は濁音の場合も多い。それを解決するのが〈ぢ〉なのである。一般に使われている〈じ〉を排除することで〈地・ち〉を人々の深層に植え付けていくという効果が生じる。だが〈地〉という漢字はこういう規範意識というか正字意識が確立するより前に人々は使っていた語彙である。というより〈地〉という意味と音韻の結びつきが普及していたからこそ〈神の名〉に用いられたのであろう。
    だから漢字〈地〉からは〈地面、地下人、地割〉などの言葉がすぐ浮かぶ。当然このような語彙は殿上人とは無縁の語彙である。つまり〈卑語〉である。とすればある時期の学者がこれらの語を卑語として〈ち〉も〈ぢ〉を使わないで、庶民がもともと苦手な清音をあえては使わせないで、〈正字じ〉を用いるべきだと言い立てて一種の党派性の踏み絵を実行した蓋然性はかなり高い。もちろんこんなこと法律の条文のどこにも書いていないはずだ。良くも悪くも、こっそり既成事実を積み上げるのが日本の内閣の伝統なのだ。
    だがこういう流儀は一方から見れば漢字という中国に典拠をもつ存在を宮廷政治の風下に置くことであるから強い反発もあったはずである。だから明治時代に定められたシッタン学系統の旧かなの正字は〈ち地ぢ〉であった。

    ここで再度〈縮める〉について考える。今まであまり意識してなかったが、これは語彙〈千々〉に関連があるはずだ。だとすれば〈ちぢ〉が穏当なところだ。ところがここで〈短い〉と〈身近〉の乖離が気になってくる。〈みじかい〉、〈みちか〉と、漢字も違えば正字も違うと、全く関係ない二つの語として頭の中にしまわれてしまうのだ。だが〈ながいーみじかい〉と〈とおいーちかい〉を並べると中間に〈みぢか〉を想定したくなるのが人情なのだ。それは違う、という文献をみたことがない。現在はあまり使われないが音韻〈み〉は、〈高み〉〈深み〉〈茂み〉のように場所の一点をさす接尾辞〈み〉が広範に用いられていたはずなのである。祖語として〈端の一点・み・身〉を仮構すれば、〈身と身が近い〉と〈端の点と端の点が近い〉という同音異義語ができ、それが一方は〈ミ〉が脱落して〈近い〉になり、他は〈短い〉になって、さらに心理的な親近感を表現する〈身近〉と〈直に〉の四語が現在まで残っている、と考えたい。
     〈みじかい〉の正字が〈じ〉なのは〈千々〉の〈千〉の反対の〈くだらないもの〉を意味するから〈じ〉でいいし、大和言葉になっているものは慣習優先でだれも異議を唱えなかったのであろう。だが語源あるいは祖語あるいは露伴のいう「語系」の問題を考える時は音韻イメージに立ち返って考えることが大事だと思う。

     こういう方法が「語彙構造からさぐる語源」あるいは「音韻イメージからさぐる語源」である。

      さらにWordにはびっくりする仕掛けが入っている。差別語の問題である。この問題に立ち入る前に私の立場をいっておくが育ちは東京のド真ん中、母方はご維新で食い詰めて北海道に渡っているから部落問題は小説でしか知らない。だが歴史の問題を考えていて「えた」という漢字を入力しようとしたらできなかった。これはすごく徹底していて、まず「穢い」を入力して、その後で「多い」を入力しようとしてもExcelの場合、同一cellでは入力ができないようになっている。
      ここでこの論理設計について直接言及するつもりはないが、こういう事実を私達は知らない、ということは認識しておいた方がいいと思う。仮に100年後に部落差別がなくなって一般の人々がそういう事実を想起できなくなった時に、こういう論理が残ってたら人々はどのように解釈するのだろう。日本語の歴史を考えるということは、日本語の成り立ちを考えるということなのだが、かつての日本ではこういうことがもっと頻繁にさらに深層で、つまり文献的には追跡できないレベルで起きておきて来ているはずだ。このことを肝に銘じて日本語の問題は考察されなければならないと思う。

   やっぱり、最後に言ってしまうが、私は差別語を隠蔽するだけって好きになれない。「えた」を排除すれば〈穢い〉、次は〈臭い〉〈うざい〉、そして〈シカト〉。次々変わっていくだけだ。外国籍児童が早い時期に覚えてくる辞書にない言葉はたいてい差別語として彼らに投げつけられた言葉だ。先日テレビで日本語のクイズ番組をやっていたが出てきたのが〈きもい〉。これも教室で生徒から意味を聞かれている。テレビの高みから流れてくる言説はこういう新語を知識としてしか紹介しない。だが新語とは底力はないけど鋭く相手を切りつける力、つまり力動を伴っているのである。つまり dynamic なのである。そういう語用論と切り離された辞書談義はそろそろ終わりにしてほしい。
   それより日本語の成り立ち、とりわけ貴卑は同源、一瞬は永遠、清音濁音、、雅語卑語、逆語序といった広義の文法をきちんと教えるべきだ。例えば・・・・・・。

[偉] [ゐ・い] [異]
[地味・魑魅] [ちみ・じみ] [地味・滋味]
[静心] [しづ] [賎心]
[知る] [し] [痴る]
[大] [おほ・をを] [雄雄しい]
[大] [だい・たぃ] [太]
[大] [だい・ゐだ] [韋駄天・偉大]
[流石] [さすが・がさす] [がさつ]
[つい、忘れた] [瞬間・最後に] [つひに忘れた]
[一対] [つい・つひ] [終の棲家]
[すごい] [すご・すこ] [少し]
[穢多] [ゑた・たへ] [妙・栲]
[絵] [ゑ・ず] [図]

*小学校の時、〈図画工作〉の時間に〈絵画〉を教わったのが不思議だった。



露伴の<し・ち>論 (16日追加)
 ようやく、岩波の『露伴随筆集(下)』のp287まで読みすすんだところで、上の記述にいたった。要約すると<し・ち>同祖の可能性が大きいとしながらも〈し・じ>と〈ち・ぢ>は別々の〈血脈〉でなければならないとしている。このような前提の置き方は他のところでも見受けられる。こういうところに、私のような旧かなが体に染み付いていない人間とのギャップがある。そしてこのギャップは、万葉仮名や旧かなをdisciplineされた人々の日本語論に私が感じるギャップと通底するものであろうと思っている。
■〈高千穂・たかぢぼ〉(12月9日)
今さっきのテレビで有名な俳優の田村さんの「高千穂紀行」が流れていて、正唱法に詳しいはずのご本人の口から、〈たかじぼ〉と聞こえてきたので目盛っておく。